歴史年代ゴロ合わせ暗記 

歴史年代ゴロ合わせ暗記日露戦争

日露戦争

 
 
日露戦争とは1904年2月から1905年9月まで日本とロシアが戦った戦争のことです。日本は、なんと大国ロシアに勝利することになるのですが・・・。この日露戦争について少し詳しく見てみましょう。



 ●日露戦争の原因

 話はさかのぼり、1894年の
日清戦争から。日清戦争に勝利した日本は下関条約(しものせきじょうやく)というのを結び、多額の賠償金と土地を譲り受けます。その中に遼東半島(りょうとうはんとう)という場所がありました。この土地は、当時アジア進出を目論んでいた日本にとって清から譲り受けた戦略的に重要な場所です。

 しかし、清の広大な土地を狙っているのは、何も日本だけではありません。イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、イタリアなど・・・。特にロシアは南下政策(南に南に領地を広げていく戦略)をとっていましたから、日本に遼東半島をとられるのを快く思っていませんでした。というか、この土地はロシアが欲しいくらい・・・。

 そこで、ロシアはドイツとフランスを誘って日本に「遼東半島を清に返せ!」と言ってきます。これを
三国干渉(さんごくかんしょう)といいます。干渉とは、口を挟むという意味ですね。

   「僕がもらった土地だからイヤダヨ〜」とも言えず、日本はこの要求通り泣く泣く遼東半島を清に返すことにします。

 その後、清は欧米列強国というわれる国々に次々と侵略を許すことになります。実は、それまで列強国の中国進出は、清の従属国であったベトナムやビルマ、また周辺地域にとどまっていたのですが、清が日本に負けたことにより、「なんだ。清ってそんなに強くないじゃん」とバレてしまった!そこで、各国が競うようにして中国進出を加速していくこととなるのです。ロシアは日本から返させた遼東半島の一部を租借(そしゃく)といって一定期間借りていますし、ドイツ、イギリス、フランスも各地域を租借しまくっていきます。

 そんな状態の清で義和団(ぎわだん)といわれる宗教団体が立ち上がります。「中国から外国の勢力を追い払おう」という運動を始めるのです。これを
義和団事件といいます。清は、ひそかにこの運動を後押し。そして1900年には遂に清の実質的指導者であった西太后(せいたいごう・女性)も正式に義和団を支持することに決め各国に宣戦布告しました。

 これに日本、ロシアを含む8カ国は共同出兵し鎮圧(日本も欧米列国と同様、清の領土を譲り受けていたので攻撃を受け、参戦しました)。結局、清はこれまでよりも更に過酷な条件の北京議定書(ぺきんぎていしょ)を受け入れる羽目になり、中国の半植民地化はさらに速度を増していくことになります。

 ロシアはこの事件後、他国が中国から兵を引き上げる中、逆に部隊を増強し
満州(中国の東北部)に留め、事実上占領。南下政策を推し進めようという動きを見せていました。

 満州の南には朝鮮(大韓帝国)があります。そのすぐ隣には日本・・・。日本は朝鮮半島を防衛の生命線と考えていました。その朝鮮にもロシアの影響力が強まりつつある・・・。これは危険!

 しかし、幸いなことに、このロシアの勢力拡大を嫌っていた国があります。世界最強とも言われるイギリスです。なんと、このイギリスが日本と同盟を結んでくれるというじゃありませんか!先に書いたようにイギリスも清に多くの租借地を持っていましたから、この権益がロシアに侵されるのを嫌っていたのです。この同盟を
日英同盟といいます。

 日英同盟の内容を知ったロシアは、「じゃ、仕方ないから満州から兵を引き上げるよ。でも、すぐには無理だから3回に分けるね。」と約束するのですが、1回引き上げただけで、2回目以降は、この約束を無視!完全に舐められてる・・・。それでも、日本はすぐにロシアと喧嘩するわけにもいかないので「それなら、満州はロシアの権利を認めるから、韓国の支配は日本に認めさせて。」と提案するが結局これも決裂!南下政策続行の動きを続けるロシアを危険とみなした日本は遂にロシアとの戦争を決意するのです。

 ●日露戦争の経過
 
 日英同盟は、日露戦争に向かう日本にとっては大きなプラスでありました。その内容の一部に「どちらかの国が2つ以上の国を相手に戦争を始めた場合、もう一方の国は同盟国に対して味方となり戦争に参戦する」という約束が書かれています。

 つまり、この条約により、日本がロシアと戦争を始めた場合、仮にロシア側に味方する国が出てきた場合でも日本は単独で2カ国を相手にしなくて済むということです。その場合は、イギリスが日本に味方してくれますから・・・。

 1904年、日本は遂にロシアに宣戦布告をします!日露戦争開戦です。

 国力では日本の10倍もの差があるロシア。この大国に日本が勝てるのか?先に結果を言ってしまえば勝ちます!でもどうやって?

 まず、日本側の作戦としては、お金もないし短期決戦、そして早期の段階でロシアに圧勝し講和を結んでしまおうという作戦です。

 そして、
伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、セオドア・ローズヴェルト大統領と親交のある金子堅太郎(かねこ けんたろう)をアメリカに渡らせアメリカの世論が日本よりになるよう工作するよう依頼します。

 そして、日本の連合艦隊を旅順に向かわせました。
旅順(りょじゅん・遼東半島の一部)は、三国干渉によって日本が清に返した土地ですが、事実上ロシアの軍事基地となっていました。

 まず、戦艦にて旅順を攻撃するが上手くいかない。そこで、陸上からの攻撃に切り替え指揮官を
乃木稀典(のぎ まれすけ)とし作戦を変更します。乃木は、日清戦争の時、あっけなく旅順を攻略してしまった経験を持つ。今度も・・・。と思いきやロシアによってコンクリート製の強固な要塞と化した旅順はビクともしない!結果、日本に多くの戦死者を出すことになります。

 そこで、今度は203高地という山を攻略せよ!と本部は乃木に提案。この小さな山からなら旅順港を砲撃できそうです。そして、乃木は「陸軍の頭脳」というわれる
児玉源太郎(こだま けんたろう)の力を借り、なんとか203高地を占領。作戦通り、頂上からの砲撃によりロシア艦隊を殲滅します。しかし、この旅順攻略には日本軍は6万人もの戦死者を出すことになりました。

 なんとか、旅順を攻略は出来たものの、ロシアにはまだ、最強艦隊といわれるバルチック艦隊があります。1904年、10月15日。ついに、そのバルチック艦隊が動き出しました。

 しかし、これにはイギリスがナイスサポート!各国に圧力をかけ、バルチック艦隊の入港を拒んだり、石炭の積み込みを不自由にさせたりして航行を邪魔します。バルチック艦隊が日本海にたどり着くまでには約7ヶ月もかかりました。疲れきった状態で日本海にたどり着いた最強艦隊。彼らを待ち構えていたのが
東郷平八郎(とうごう へいはちろう)が率いる連合艦隊です。7ヶ月もの間、こちらは砲撃の精度を猛特訓していました。

 精度の上がった砲撃と後に世界三大提督のひとりに挙げられることになる東郷平八郎、また彼の右腕、戦略家の秋山真之(あきやま よしふる)らの周到な作戦により、世界最強艦隊を相手に一方的な勝利を見せ付けます。

 日本軍の活躍により軍事的な勝利を得た日本でしたが、当時国家予算が2億5千万円の状態で無理くり用意した18億円。そのうち、第一ラウンドで15億円も使ってしまった・・・。もう、戦争続けるの無理なんですけど・・・。

 そう、ここでアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトにあらかじめ仲介をお願いしていたのが役にたちます。日本は当初の作戦通り、初戦で圧勝し、早い段階で講和条約を結んでしまおうという作戦が見事に成功したのです。このアメリカ大統領の仲介により結ばれた条約が
ポーツマス条約です。

 ●日露戦争のその後

 戦争では、ある程度、思い描いた作戦通りとなりましたが、この後が難航します。ロシアは負けを認めないのです。といっても日本もこれ以上、戦えない。そこで、日本側が最大限譲って、「お金はいらないよ。その代わり、日本の韓国における優越権や南満州鉄道の一部、あと南樺太をくれ!」と要求。何とか、この妥協案で交渉は成立します。(ポーツマス条約)

 しかし、怒ったのは日本の国民です。「おい、おい賠償金なしかよ。政府弱腰すぎない?」と講和条約に納得できない国民は全国で暴徒化していくことになるのです。
(日比谷焼き討ち事件)

 ●日露戦争の暗記法

日露戦争語呂合わせ:行くわ死(1904)んでも日露戦。戦苦を承(1904)知、日露戦。

ポーツマス条約語呂合わせ:ひどく怒る(1905)よ、ポーツマス。

*ちなみに日本は1874年より1914年の間、10年おき「4」のつく年に戦争をしています。

1874年(台湾出兵)→1884年(甲申事変)→1894年(日清戦争)→1904年(日露戦争)→1914年(第一次世界大戦)

どれか忘れても起きた順番だけ覚えておけば、その前後10年で答えは導き出せますね。



●遼東半島

日清戦争にて日本に割譲されたが三国干渉により領有を断念。その後、この遼東半島の一部(旅順・大連)をロシアが租借(一定期間借り入れ)事実上、ロシアの軍事基地となっていく。

日露戦争開戦後は、この遼東半島の旅順にて日本とロシアが激しく争うことになる。


 
日露戦争の英雄たち
旅順での戦い 
乃木稀典

休職中であった乃木は日露戦争開戦と共に呼び戻される。旅順を陸上から制圧し、ロシア艦隊を撃破する作戦であったが強固な要塞に苦戦。203高地を占領する作戦に変更後も死者を続出させることになる。 


児玉源太郎

乃木の友人である児玉は203高地作戦にて指揮権を乃木から譲り受け、たった1日で乃木が苦戦する203高地を制す。それにより、旅順の要塞を攻略。 


 
最強艦隊バルチックとの戦い
東郷平八郎

バルチック艦隊は日本海に到着するまでに7ヶ月もの期間を要した。その間、東郷は砲撃の訓練を連日連夜行う。

対馬海峡にて対峙すると訓練の成果がものをいい、見事圧勝する。 



 日露戦争についてもっと詳しく

ポーツマス条約

日比谷焼き討ち事件

乃木稀典

児玉源太郎

東郷平八郎

外国のお金で戦った日露戦争