日比谷焼き討ち事件の概要
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日比谷焼き討ち事件の概要 |
参加者 |
約3万人 |
逮捕者 |
約2000人 |
死者/負傷者 |
17人/500人以上 |
焼き討ち被害 |
警察署2箇所/警察分署6箇所/派出所203箇所/教会13箇所/電車15台 |
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日露戦争に勝利した日本。しかし、国民は、その後ロシアとの間で結ばれたポーツマス条約に怒りを募らせておりました。
ポーツマス条約にて日本が得ることができたのは、南樺太の領土割譲、大連、旅順の割譲、日本の韓国における優越権のみ。日清戦争後の下関条約の時のような膨大な賠償金などはありませんでした。
100万人以上の兵力を費やし、18億円以上の軍費を使い、その程度?ちなみに、日清戦争では、2億3000万円ほどの戦費で3億1000万ほどの賠償金の他、台湾などの領土を手に入れています。
「せっかく、増税にも耐えてきたのに!弱腰すぎるぞ政府!」
ということで国民の怒りは頂点に達します。
1905年9月5日。条約破棄を訴える国民が日比谷公園に集まりました。集合をかけたのは、講和問題同志連合会という対ロシア強硬派の人々です。参加者は約3万人。駆けつけた警察官350人との小競り合いはありながらも大きな被害はでることなく講和条約の破棄や内閣批判を訴え終了。
・・・と、思われた矢先、一部の暴徒化した人々が二重橋を行進していきます。それを止めようとする警察官とも揉めあい、遂に溜まりたまった怒りを発散させるべく、彼らは警察署や派出所を襲撃。さらには、日比谷公園付近の官邸や政府よりといわれた新聞社に向け火を放ちました。また、ポーツマス条約を斡旋したアメリカにもその怒りは向けられ、米国公使館、教会なども標的とされました。これが、日比谷焼き討ち事件です。
政府は、9月6日、戒厳令を施行し天皇を守るエリート部隊まで出動させてなんとか日比谷焼き討ち事件は鎮圧となりますが、こうした騒動は全国に飛び火していくことになります。
日露戦争時、当時の国家予算が2億5000万円の状態で18億ものお金を使ってしまい、すでに戦う力などなかった日本。賠償金など貰わなくとも、兎に角講和条約を成立させ戦争を終わらせるといった政府の判断が間違っていたとはいえませんが、国民に反感をかってしまったわけですね。
*当時は、朝日新聞の掲載内容。講和条件に対する不満が書かれています。中央には白骨の涙とイラストが描かれポーツマス条約に対する批判を記載しています。
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