歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記>源頼朝

源頼朝


 源頼朝(みなもとのよりとも)といえば、鎌倉幕府を開いた人ですね。牛若丸と呼ばれた源義経(よしつね)の兄としても有名です。

 では、今回は、この源頼朝について少し学んでいきましょう。



 
保元の乱

 時代の流れを知っておくためにまずは、源頼朝のお父さんのお話から始めますね。

 頼朝のお父さんは源義朝(よしとも)。う~ん。名前が似ていてわかりづらい・・・。学生の時は、お父さんが
なので弟に「」の字を与えて、兄に「」の字を与えたって勝手に想像して覚えました・・・。まぁ、実際には兄弟はもっと沢山いたのんですけどね。しかし、この家系は「義」とか「朝」とか「頼」とかが付く名前がめっちゃくちゃ多いんです。

 さて、当時は、院政っていうのが行われていました。もと天皇(上皇)や出家したもと天皇(法皇)が天皇の代わりに政治を行うことですね。

 天皇のままだと院政ができないので天皇は、進んで天皇をやめて上皇になろうとする場合がでてくるんですね。そうなると、上皇や法皇といった元天皇がゴロゴロ存在することもありうるわけです。

 ですが、みんながトップで政治なんてできやしません!そうなるとそうなるのか?上皇と法皇どうしで争いが起こるんですね。

 また、現役の天皇と上皇との間で政権争いが勃発することもあります。これが保元の乱です。1156年、崇徳上皇と後白河天皇の間で起こります。

 崇徳上皇が味方につけたのが藤原頼長、平忠正、源為義。後白河天皇は藤原忠通、平清盛、源義朝(頼朝の父)でした。

 おぉ!天皇側、平清盛いるじゃん!源頼朝のお父さんの源義朝もいるし!

 その通り!保元の乱は有名どころのいる天皇側の勝利です。

 
平治の乱

 さて、勝利した天皇側には平清盛と源義朝がいますね。この二人が揉めます。後白河天皇は、平清盛をかわいがったんです。そんなもんだから、源義朝は激怒!崇徳上皇側にいた源為義って実は、源義朝の父。つまり、源頼朝のお爺ちゃんです。父親を敵に回してまで勝利に尽くしたのに・・・。ふざけんなよ!ってところです。


 さらには、これに朝廷内の争いや藤原家の思惑が絡み合い、やがて本格的な戦になります。これが平治の乱。1159年に出来事です。

 さて、この戦い、当初は源義朝優勢でした。しかし、油断したこともあり、結果、平清盛に負けてしまいます。

 源義朝もこの戦で殺されてしまいます。

 源頼朝も実は、ここで最初のピンチを迎えました。父、義朝と共に戦に参戦していた源頼朝。普通なら処刑されてもいいところです。しかし、平清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)という人に助けられます。自分の死んだ息子に頼朝が似ているという理由です。その為、頼朝は処刑をまぬがれ伊豆へ島流しにされるだけで済みました。

 ちなみに弟の源義経も当然、ピンチです。まだ、赤ん坊でしたので母といっしょに逃げていました。この母親が常盤御前(ときわごぜん)という人でキレイな人なんですね。平清盛は、あまりの美しさに「お前が俺のところにくるなら子供は助けてやる!」と義経と2人の兄ともども兄弟3人は命拾いし、義経は京都の鞍馬寺にあずけられることになります。

 
源平合戦

 その後は、平清盛はやりたい放題!日宋貿易で金を蓄え、強大な権力を手に入れます。

 仲の良かったはずの後白河法皇(この時には法皇になっていた)も「あいつ、最近、俺より権力持ってない?」ってことで決別!後白河法皇は平清盛の権力を削ぐためにあらゆる手段を投じますが失敗。最終的には、平清盛によって幽閉され「政治には今後、口を出しません」と約束させられてしまいます。

 ですが、平家の天下も長くは続きません。

 後白河法皇の息子である以仁王(もちひとおう)は、平家を倒せと諸国の武士たちに命令を下しました。

 待ってましたと立ち上がったのが源氏です。

 特に頑張ったのが源頼朝、そして源義仲(よしなか)という頼朝のいとこ。

 源頼朝の方は、初戦は勝利したものの、石橋山の合戦で敗北。その後、現在の千葉県に逃げ、源氏の兵を集めて、再び挙兵。その後、富士川の戦いで勝利をおさめます。この頃、平清盛は病気で亡くなってしまいました。これは、平家側にとっては大ダメージです。
 
 そんな中、義仲は牛の角に火をつけて平家軍を撃退したといわれている俱利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で勝利するとそのまま都へなだれ込みます。平家軍は都を捨てて逃げていきました。そして、平家に代わり、都を入りを果たします。

 しかし、義仲の軍は、都で宝物を奪ったりとひどい行いを繰り返します。これに怒った後白河天皇は頼朝軍に義仲を倒せと命令。ここで、頼朝の弟である源義経が実質的なリーダーとなり、宇治川の合戦で義仲を倒します。

 その後も義経をリーダーとした頼朝軍は、勢いを取り戻した平家を激闘を繰り広げることになります。

 まずは、一の谷(兵庫県)にて有名な崖くだりにて大勝利!降りられるわけがないと思っていた崖を馬に乗ったまま義経軍は駆け下りてきたもんだから平家はビックリ!奇襲を掛けられて平家敗北です。

 その後も四国の讃岐国屋島(香川県)にて、これも有名な「扇の的」にて義経らは勝利。平家が船の上に竿を建てて、そこに扇を置いて「これを射抜いてみろ!」と挑発したら義経側の那須与一という弓の名手が見事命中させてしまう。

 そして、最後が壇ノ浦(山口県関門海峡)にて平家の水軍の漕ぎ手を狙うという戦法で源氏の勝利となります。

 そして、この後、源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府の幕開けです。

 
源頼朝の最後

 幕府も開き、人気もあった頼朝。しかし、なんと馬から落ちて死んでしまいます。ですが、頼朝は武士ですので馬には慣れています。もし、落馬するにしてもよほど油断していなければ、死ぬほどの怪我はしないように受け身をとって落ちるのでは?

 まぁ、真相はわかりません。ですが、頼朝の最後が落馬というのには納得いかない人も多く、暗殺説も多く呟かれています。