歴史年代ゴロ合わせ暗記 

歴史年代ゴロ合わせ暗記源平合戦を分かりやすく解説

源平合戦 

 
 
源平合戦とは、以仁王(もちひとおう)の呼びかけにより、各地の武士達が打倒平氏の為に兵をあげ、ついには平氏を滅ぼした戦いです。この時、特に活躍したのが源頼朝(みなもとのよりとも)や源義経(みなもとのよしつね)ら源氏でした。

 では、この源平合戦について、もう少し詳しく見ていきましょう。
 
 話は、平治の乱の後から始めましょう。1159年、平治の乱で
源義朝(みなもとのよしとも)を討った平清盛(たいらのきよもり)は一気に、その力を強めていきます。
 
 
後白河法皇(ごしらかわほうおう)との関係を深め(法皇とは、元天皇)、太政大臣という地位までのぼりつめ、貿易により金を蓄え、ついには日本の半分近くを治めるほどの権力を持つようになります。

 しかし、平清盛があまりにも権力を握ったが為に一時は仲の良かった後白河法皇ですが、いよいよ面白くありません。1177年には、打倒平氏の陰謀に加わって見たり(すぐに清盛にバレて鎮圧)、平清盛の息子のが亡くなるとその土地を没収だ!と命令を出していたりと何とか平氏の権力を削ごうと躍起になります。

 すると、ついに平清盛は後白河法皇を幽閉し、「もう、政治に口は出さない」と約束させます。1179年のことです。

 『わしの娘の徳子は高倉天皇と結婚し、その息子は天皇にまでなった。土地も金も手に入れ、これで平氏は安泰じゃ〜。口出しする者も、もう、おるまい。ワッ八八!』

 などと清盛は思っていたことでしょうが・・・。この平氏の繁栄も長くは続きませんでした。

 きっかけは、後白河法皇の次男である
以仁王の呼びかけです。

 「これ以上、平氏の連中に好き勝手やらせていいのか?平清盛の孫にあたる安徳天皇を天皇の座から引きずりおろし、新しい政権をつくり上げようじゃないか!」

 と声を上げます。その呼びかけに答えたのが、各地の武士たちです。その中で特に活躍することになるのが、かつて平治の乱で平清盛に敗れた源義朝の子、
源頼朝源義経でした。




 きっかけを作った以仁王は1180年5月に平氏の軍に敗れ、戦死してしまいますが、平氏打倒の勢いは止まりません。ここからは、源氏が平氏を各地の合戦で次々に打ち負かしていき(平清盛は1181年に病死)、ついに1185年、
壇ノ浦で平氏を滅ぼします。

 この1180年から1185年までの内乱を一般的に
源平合戦(源平の戦い)と呼びます。また、この内乱が単に平氏VS源氏という単純なものではなかったことから治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)と呼ばれることも多くなりました。 

源平合戦の経過 
1180年5月 以仁王の挙兵  以仁王・源頼政VS平知盛・重衡(勝ち)  以仁王の呼びかけにより全国の源氏が挙兵。以仁王は戦死。
1180年8月 石橋山の戦い  源頼朝・北条時政VS大庭景親・伊藤祐親(勝ち) 源頼朝挙兵。頼朝は惨敗するもその後、東国の武士を味方につけて再起。
1180年10月 富士川の戦い  源頼朝・武田信義(勝ち)VS平維盛・忠度  頼朝が平氏の追討軍に勝利。
1183年5月 倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い  源義仲(勝ち)VS平維盛・行盛・忠度 信濃にて義仲挙兵。牛の角にタイマツをくくりつけるという策で義仲勝利。
1183年閏10月 水島の戦い 源義清・海野幸広VS平重衡・通盛(勝ち)  義仲軍の武将・源義清・海野幸広は平氏の拠点である屋島を目指すが敗北。
1184年1月 宇治川の戦い  源義仲VS源範頼・義経(勝ち)  義仲がクーデターを起こしたため、源氏同士の抗争に。頼朝の命で義経上洛。援軍とて範頼が派遣。 
1184年2月 一の谷の戦い  源範頼・義経(勝ち)VS平宗盛  源氏同士の争いの中、京都奪還を狙う平氏。源範頼、義経は慌てて攻撃。その時、義経が一の谷の断崖を馬で駆け下り奇襲をかけたのは有名。
1184年12月 藤戸の戦い  源範頼(勝ち)VS平行盛  一の谷でダメージを受けた平氏。それを追う源氏。藤戸で合戦となる。 
1185年2月 葦屋浦(あしやうら)の戦い  源範頼(勝ち)VS原田種直  平氏を追討すべく範頼軍が平氏側の豪族、原田種直と対決。勝利した範頼軍は九州上陸を果たす。 
11852月 屋島の戦い  源義経(勝ち)VS平宗盛  範頼に加勢するため義経出兵。平宗盛らが拠点としていた屋島を襲う。この時、源氏側の那須与一が揺れる小船の的を馬上から弓で討ちぬいた話は有名。 
1185年3月 壇ノ浦の戦い  源範頼・義経(勝ち)VS平宗盛・知盛  最終決戦。初めこそ平氏優勢であったものの次第に源氏側が押していくことに。最後は、平氏の武将が海に身を投げ平氏滅亡。安徳天皇も海に没した。