保元の乱
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保元の乱(ほうげんのらん)とは、1156年(保元元年)、崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇(ごしらかわてんのうが皇位の継承をめぐり対立。それに、藤原氏も兄弟が二手に別れて加担し争った戦争です。
簡単に言ってしまえば兄・上皇VS弟・天皇の争いですね。
・ポイント
崇徳上皇と後白河天皇の争い
なぜ争った? ・自分の子を天皇にしたい崇徳上皇だったが弟の後白河天皇が天皇として即位。(崇徳上皇権力衰退)
どっちが勝った?・後白河天皇側の勝利
保元の乱のその後、後白河天皇に味方した平清盛は重用。同じく後白河天皇に味方した源頼朝は冷遇→平治の乱へ
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では、保元の乱について、もうちょっと詳しく見てみましょう。
崇徳上皇がまだ天皇だった所からお話しましょう。(あっ、ちなみに上皇とは、天皇の座を退くと上皇という位になります。さらに上皇が出家、仏教の道に進むと法皇となります。)
その頃、長きに渡って政治の実権を握っていた崇徳天皇のおじいさん、白河法皇が亡くなります。1129年のことです。
そして、政治は実権は崇徳天皇の父、鳥羽上皇(とばじょうこう)の手に移り変わります。
1141年。鳥羽上皇は、藤原璋子(ふじわらのしょうし)の子である崇徳天皇に天皇の座を譲らせ、愛してやまない藤原得子(ふじわらのなりこ)の子である体仁親王(後の近衛天皇)に天皇の座を譲るように言い渡します。
鳥羽上皇は、崇徳天皇に「藤原得子の子供に天皇譲ってやってよ〜」とせがむんですね。もちろん、崇徳天皇は嫌ですが、仕方なしに体仁親王を養子して近衛天皇として即位させます。近衛天皇はこの時、3歳!
鳥羽上皇は鳥羽法皇となり、崇徳天皇は上皇に。実権は鳥羽法皇です。
その後、近衛天皇は17歳の若さでお亡くなりになりますが、次に天皇の座についたのは、崇徳上皇の子ではなく、弟にあたる後白河天皇でした。
この時に、自分の子が天皇に付くことが出来ていれば、将来、院政といって権力を握ることも可能でしたが、弟が天皇になってしまったら将来の院政も不可能。
崇徳上皇にしたら、はらわたの煮えくりかえる思いだったことでしょう。。
そして、ついに1156年です。鳥羽法皇が亡くなると共に、崇徳上皇が動き出します。
邪魔者も消えた!そろそろいい頃(1156)だろう。保元の乱です。
崇徳上皇は、皇位を取り戻そうと藤原頼長(ふじわらのよりなが)と手を組みます。頼長も天皇側についていた兄の忠通(ただみち)から関白の座を奪い取るには絶好のチャンスです。また、源氏、平氏もそれぞれに分かれて激しく争うことになります。
崇徳上皇側 |
藤原頼長 |
源為義 |
平忠正 |
VS |
後白河天皇側 |
藤原忠通 |
源義朝 |
平清盛 |
この時、活躍したのが後に名を轟かせることになる、源義朝(みなもとのよしとも)や平清盛(たいらのきよもり)です。(犬猿の仲のような2人ですが、この時はまだ仲間同士でした)
この保元の乱は、夜襲により後白河天皇側の勝利となります。
崇徳上皇は、長年の恨みを晴らすことなく負けてしまったわけです。
そして、この乱により見事活躍して見せた武士達が力を付けていく転機となったと言われています。
保元の乱覚え方:いい頃(1156)に勝ったぞ!ゴジラ(後白河)くん。
>平治の乱
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