歴史年代ゴロ合わせ暗記 

歴史年代ゴロ合わせ暗記朝鮮の歴史>北朝鮮の独裁体制

金日成の独裁体制


 北朝鮮では、金日成(キムイルソン)から始まり金正日(キムジョンイル)、金正恩(キムジョンウン)と独裁体制が維持されています。しかし、なぜ北朝鮮はこのような独裁体制の国家となっていったのでしょう。その歴史を北朝鮮建国からさかのぼって見てみましょう。

 時代は、第二次世界大戦までさかのぼります。当時の朝鮮半島は日本の支配下にありました。しかし、日本が第二次世界大戦に敗北すると朝鮮半島は北緯38度線(半島のほぼ真ん中)より北をソ連(ロシア)、それより南をアメリカが占領し両国の軍事統治を受けることになります。

 一応、国連の話し合いでは戦争中にいったんは連合軍が占領し、その後は朝鮮民族の独立国家建設を支援しましょうということになっていたんです。ですから、1947年1月に国連の監視のもと、南北総選挙を実施して朝鮮半島に統一政府を樹立することを決めていたのです。

 ですが、ソ連の支配する朝鮮半島北部では1946年2月にすでに北朝鮮臨時人員委員会が発足していました。委員長が、そう金日成です。

 国連の監視下による選挙なんてやったら、ソ連の都合のいい国家が作れませんからね。有権者は候補者を支持するなら白い箱、支持しないなら黒い箱に投票などといった自由とはかけ離れた選挙で、すでにソ連の言いなりの国を作り上げる準備をしていたんですね。ですから、国連監視下での南北総選挙なんぞまっぴら御免なわけです。

 ソ連がかたくなに拒んだため、とりあえず南半分だけでも選挙を行っておきますか?ということで1948年5月に南半分のみで選挙は実施されました。

 そして、その選挙の結果、1948年8月に大韓民国が成立。翌年の9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。金日成は、この時北朝鮮の最高ポストである首相に就任します。

 そして、この年にソ連は朝鮮半島から撤退。翌年アメリカも軍を引き上げます。

 
ところで、なぜ金日成が選ばれた?

 金日成という人は「伝説の人、金日成将軍」としてすでに有名だったんです。日本の朝鮮半島支配中に朝鮮半島はもとより、満州でも日本軍と戦い連戦連勝。1932年から1945年の間に日本軍と10万回戦い全勝したというとてつもない記録を打ち立てた伝説の人だったんです。10万回って!1日20回戦闘繰り広げなきゃならんじゃないか!という計算なんですが、まぁ、北朝鮮の公式の伝記にはそう書かれています。朝鮮半島の人にたら「話半分としても、すごい人なんだろうなぁ」っといったところだったのでしょう。

 ですが、金日成が初めて民衆の前に姿を現した1945年10月。平壌でソ連軍を歓迎する式典が開かれた時の演説での金日成の年齢は33歳です。ちょっと若すぎですね。

 実際の金日成は、ソ連の大尉でした。もともとは、18歳の時に南満州にて朝鮮人が組織した抗日遊撃隊に参加し、その後、この抗日遊撃隊は、中国人が総司令官を務める東北抗日連軍に統合。しかし、満州にて日本の関東軍に弾圧を受け、金日成はソ連に向かいます。

 ソ連では、やがて日本と戦うことになるであろうことを想定して日本と戦ったことのある中国人や朝鮮人を迎え入れ、金日成はソ連軍の大尉として訓練を受けるのでした。しかし、実際のところ、日本軍と戦う前に終戦してしまったようです。

 このような話はソ連が崩壊するまでは闇に葬られてきましたが、ソ連崩壊後、ロシア人が韓国メディアの取材に答えることで徐々に明らかにされてきました。

 そして、大戦後、ソ連のスターリンは、自分たちの思い通りに行く朝鮮人の指導者を連れてくるように命令を下し、そこで推薦されスターリンの面談を受け選ばれたのが金日成でした。


 
金日成個人崇拝

 1950年には朝鮮戦争が起こります。北朝鮮は、ソ連から武器を中国から兵の支援を受けて韓国に攻め入ります。韓国を武力で併合しようと考えたのです。当初は北朝鮮有利に展開するのですが、韓国側でもアメリカを中心に国連軍が韓国支持に入ると形勢逆転。北朝鮮は中国国境まで追いつめられると中国から100万の軍が駆けつけ膠着状態。1953年7月に休戦協定が結ばれます。

 さて、この休戦協定ですが、北朝鮮では、これを「戦争に勝利した!」ということになっています。そして、これ以降、金日成の権力が強化されていくのです。

 その方法は”静粛”です。特に抗日ゲリラといわれる日本による朝鮮半島支配の時代に日本軍と実際戦った人たちにデッチ上げの犯罪やらで死刑にしていったりするわけです。金日成は当時まだ若かったですからね。ある程度、年齢を重ねていて実際に日本軍と戦った人たちなんかは根性も座っていて、金正日に反抗の態度をとる人も多かったわけです。実際、金日成を引きずり降ろそうという動きもありましたが、これに金日成は先手を打つわけです。

 そして1956年から1958年にかけては静粛の嵐が吹き荒れます。

 さらに、この静粛は民衆レベルにまで広がりを見せていきます。これは、メディアなどでもたびたび取り上げられていますのでご存知の方も多いかもしれません。住民同士で互いに密告させるのです。政府の悪口を言っていたといって密告されれば僻地に送られたり、ひどいと強制収容所に送られちゃうんですね。知ってて密告しなくても罪に問われます。

 また、北朝鮮の各地に金日成の銅像や肖像画が掲げられます。そして、金日成、彼の名を呼ぶときも必ず「敬愛する首領である金日成さま」と呼ばなけらばならないようになっていきます。

 このようにして金日成の個人崇拝は確立していくことになるのです。

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