歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記>田中角栄

田中角栄


 
田中角栄といっても若い人では、う〜ん、「ロッキード事件」で捕まった総理大臣・・・?!くらいにしか知らないかもしれませんね。

 しかし、田中角栄といえば
日中国交回復をおこなった人です。また、日本列島改造論も有名ですね。

 非常に賛否両論のある政治家ですが、この田中角栄について少し学んでいってみましょう。



 田中角栄は1918年新潟県の二田村という現在の柏崎市で生まれました。現在の中学校にあたる高等小学校を卒業すると上京し建設会社で働きながら夜学に通うという努力家です。そのかいあって19歳で建設事務所を設立します。

 その後は、太平洋戦争が始まりますがクルップス肺炎にかかってしまい除隊となります。

 1942年に結婚。結婚した年には長男が生まれますが、この長男は5歳で亡くなってしまいます。1944年に生まれた長女が田中真紀子さんですね。後に父の後を継いで政治家になります。

 1946年の衆議院総選挙にて田中角栄は初めて立候補します。28歳の時です。政治家、大麻唯男に政治献金を懇請され、田中は300万円、現在では15億くらいのお金を用意し、日本進歩党公認で出馬することになったのです。この時のスローガンは「若き血の叫び」でした。この選挙では落選するものの翌年に民主党から立候補。初当選を果たします。

 しかし、1948年に汚職の容疑で田中は逮捕されてしまいます。当時は、石炭が非常に重要なエネルギー源でした。その炭鉱を国家管理下に置こうという動きが見えていたんです。そんなことされたら炭鉱業者はたまったものではない・・・。そして、業者は国会議員たちにお金をばらまいたのです。当然、国営化に反対してくれってことですね。

 田中は、北九州の炭鉱業者から100万円の小切手を受け取ったとして逮捕されるんです。田中角栄は、「これは賄賂じゃなく、工事を請け負った代金だ」と弁明します。しかも、田中は獄中からなんと立候補するんです。そして、再選を果たします。ちなみに、汚職容疑については、一審では有罪となるものの、東京高裁で無罪を勝ち取っています。

 1957年には郵政大臣に就任しました。39歳の時です。1962年には大蔵大臣になります。この大蔵大臣時代には山一證券の救済を行っています。山一證券が経営難に立たされるんですね。すると、山一證券だけじゃなく、他の証券会社もやばいんじゃない?となり、他の証券会社にも人が押し寄せたんです。そこで、田中角栄は、山一證券に対して日本銀行の特別融資を決断しています。実際は、日本銀行との間に一般の銀行が経由先となり山一證券にお金を無担保、無制限で貸し出したのです。これで、始まりかけた金融不安を一気に沈静化させました。

 1971年には通商産業大臣になります。今の経済産業省ですね。この翌年に出版したのが「日本列島改造論」です。明治になってからずっと東京など太平洋沿岸の大都市に人口も産業も集中しすぎているのでこれを全国に分散しましょうよといった考えです。人口30万から40万人の都市をつくり、これらの都市を新幹線と高速道路で結ぼうとしたのですね。この「日本列島改造論」は90万部を超える大ベストセラーとなります。

 そして、1972年7月に田中角栄は内閣総理大臣に就任するのでした。

 総理大臣になりわずか2か月で実現したのが、彼の最大の功績ともいわれている日中国交回復です。1972年の9月25日に田中角栄は中国を訪問。当時の中国首相は周恩来です。彼との会談にて日中共同声明を発表。日本は中華人民共和国を中国唯一の合法政府と認め、中国は戦争中の損害を日本に賠償請求しないといった内容が決められました。

 その後、上野動物園にパンダのランラン、カンカンがやってきたことは知っている方も多いでしょう。

 さて、田中角栄さんは、天才政治家という人もいれば、前途したように批判の声を浴びせる人もいます。彼を批判する人の多くが彼のお金の集め方についてですね・・・。それがロッキード事件や土地の買い占め、売り抜きによる資金集めでした。

 田中角栄の言葉で「貸した金は忘れろ!借りた金は一生忘れるな!」というものがあります。

 実際、田中角栄は、まだそれほど裕福ではない時代にもかつて借りた数円のお金のことを覚えており、日中戦争の戦地にいる友人へ、その借りた数倍のも額のお金を送ったといいます。わずかばかりのお金なのでうやむやにしてしまえば、それまでのお金ですが、田中角栄はしっかり覚えており、友人が困っている時に彼の居場所を調べお金を送ったのですね。

 政治家になってからも敵対している政治家が入院している時にたびたび病院を訪れ、その都度100万円単位のお金を置いていったという話もあります。

 そして、田中角栄はかならず自分の手からお金を相手に渡すようにしていたそうです。彼は、周囲に相手がこれくらい貰えると思っていたらそれ以上渡さなければ、金は死ぬどころかマイナスになってしまう。だから、多く渡せ!半分は無駄になってしまう金だが、残りの半分は生きる!と言っていたといいます。

 しかし、そんなお金どこからでてくるの?

 それが、1974年に文藝春秋により暴かれることになります。名前だけの会社を立ち上げて、土地を買い占め、ここぞという時を見計らって売りぬくという手法なのですが、これは政府の開発計画などを知っていないとタイミングをつかむのが不可能。事前に知らせを受けていたか、あるいは自らが動かしたかという疑惑が浮かび上がるのです。

 なかなか違法や脱税にはなりにくいようですが、まぁ、黒に近いグレーゾーンであることは間違いないですね。

 これによって田中角栄は辞意表明に追い込まれることになります。

 そして、1976年にロッキード事件です。アメリカの航空機製造会社ロッキード・エアクラフトが航空機を販売するために日本やフランス、イタリア、西ドイツにお金をばらまいたことが発覚するんです。その賄賂を受け取った人物として田中角栄の名前があがります。1976年7月に田中角栄は逮捕。ロッキード社から丸紅という商社を経由し5億円を受け取り、全日空に航空機を購入させたという疑いでした。

 1983年に東京地裁は田中に有罪判決を言い渡しますが、これを不服として控訴。その2か月後には新潟三区から立候補しトップ当選を勝ち取っています。

 このロッキード事件後も田中角栄の影響力は政界では圧倒的で「目白の闇将軍」と呼ばれますが、その後、脳梗塞となってからは、表に顔を表さなくなり1989年に政界を引退。1993年の12月に75歳で亡くなることになります。なお、ロッキード事件については、最高裁で田中本人が死去したことにより裁判は棄却。有罪判決は確定しませんでした。