鎖国の理由
|
家康の時代までは盛んに展開していた海外貿易でしたが2代将軍秀忠(ひでただ)、3代将軍家光(いえみつ)の時代には、徐々に鎖国体制を強化していくことになります。この鎖国にいたるまでには、どんな理由があったのでしょうか?
では、この鎖国の理由について少し詳しく見てみましょう。
鎖国とは、急に開始された訳ではなく、段階を踏んで行われていきます。1616年にヨーロッパ船の寄港を平戸、長崎に制限。1624年にはスペイン船の来航を禁止。1633年には奉書船(ほうしょせん)といって朱印状に加えて老中の許可を貰った船以外の海外渡航禁止します。その2年後には、日本人の渡航や日本人の帰国までも禁止。島原の乱の後の1639年にはポルトガル船の来航を全面的に禁止し、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移転させて鎖国体制の完成となります。
1616年 |
ヨーロッパ船の入港地を平戸、長崎に制限 |
1622年 |
長崎で55人のキリスト教徒らが火刑、斬首。(元和の大殉教) |
1624年 |
スペイン船の来航禁止 |
1629年 |
絵踏(踏み絵)が始まる |
1630年 |
キリスト教に関する書物の輸入禁止 |
1633年 |
奉書船以外の渡来禁止。 |
1635年 |
日本人の渡航を禁止。 |
1637年 |
島原の乱 |
1639年 |
ポルトガル船の来航禁止。 |
1641年 |
オランダ人を長崎に移す。 |
この鎖国政策では、鎖国とはいえど一部の国とは貿易を続けていました。なので最近では、この鎖国のことを海禁政策(かいきんせいさく)と呼んだりもしますね。では、その一部の国というのが、どこかというとオランダ、中国、朝鮮です。なぜ、これらの国とだけは貿易を続けていたのでしょうか?
それには、鎖国にいたるまでの理由が大きく関わってきます。
もともと、幕府が鎖国政策をとった理由はキリスト教が広まることを幕府が恐れた事が大きな理由です。
フランシスコ・ザビエルの日本来航以来、スペインやポルトガルからの宣教師による熱心な布教が九州を中心として広がっていきます。そして、そのキリスト教は一部、大名らにも広がりを見せることとなります。キリシタン大名ですね。彼らの中には貿易で経済力を蓄える者もでてきました。彼らがポルトガルやスペインと結びつき、幕府と敵対することを恐れたのがキリスト教弾圧の原因といわれています。
また、キリスト教徒の神への忠誠心や団結力も幕府は警戒していたようですね。
なので、キリスト教の布教とは関係の薄い中国や朝鮮とは鎖国後も貿易を続けていたし、貿易と布教を切り離していたオランダとも貿易は従来通りに続けることになります。
さらに幕府は、この鎖国政策によって貿易など海外との接触の管理、統制も行うことも目的としていたともいわれています。
戦国時代から江戸初期には大量の金や銀が海外に出ていってしまった。江戸初期にはすでに完全な輸入超過(貿易赤字)だったといわれているよ。さらに、先に述べたように貿易によって経済力を蓄える大名らの存在も幕府にとっては脅威だったので、貿易や海外との接触は幕府がコントロールしておきたかったんだね。
鎖国時の対外関係
中国、オランダとは長崎にて、朝鮮とは対馬にて琉球王国(沖縄
)とは薩摩から蝦夷地(北海道)とは松前にて貿易、交流が許されていた。
|
|
この鎖国は、1854年まで200年以上続くことになり、そのおかげで国内では平和な時代が訪れることになりますが、反面、世界の流れに置いてかれてしまうという状態も招くことになります。
>鎖国下で日本がオランダを選んだ理由
>鎖国下での日本の輸入品、輸出品
|
|