鎖国とオランダ
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戦国時代に初めて日本を訪れたヨーロッパの国は鉄砲を伝えたポルトガル人でした。ですが、同じヨーロッパでも鎖国後はポルトガルとは関係を断ったのに対してオランダとは貿易を続けています。なぜ、日本は、鎖国後もオランダとは貿易を続けたのでしょうか?
幕府がもっとも警戒していたのがキリスト教の布教です。江戸時代には身分制度がありましたが、これを否定するような人間の平等を説くキリスト教の存在は幕府にとっては都合が悪かったんですね。
そのキリスト教の布教にポルトガルは非常に熱心だったんです。特に九州では、キリシタン大名を中心として信者が増えていきます。
そのために幕府は、1633年から5度にわたって鎖国令を発布し、ポルトガル人の国外退去と来航禁止を命じています。
ですが、当時の日本では多額のお金を使った人工の島(現在の貨幣価値で4億円ほど)、出島がありました。これは幕府が長崎の町人25人に出資させて作らせたもの。当初は、ポルトガル人の居留地としていたのですが、幕府がポルトガル人を追い出してしまったのでポルトガル人からの家賃収入が途切れてしまったのです。出資した長崎の大店町人にしてみたら幕府に騙された!って怒ったわけですね。

そこで、幕府が彼らのためにも目を付けたのがオランダでした。オランダは、当時伸び盛りの国でしたし、何といっても布教には熱心でない。まぁ、オランダもキリスト教の国なんですけどね。信仰と商売はきっちり分けていたんです。
1641年にはオランダ商館は出島に移され、総面積3969坪の人工島、出島には医師なども含む20名ほどが住むことになります。
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