歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記沖縄戦>沖縄米軍基地

沖縄に米軍基地の歴史


 沖縄には、日本にあるアメリカ軍の専用施設のおよそ74%が集中しています。沖縄本土では、面積の18%ほどがアメリカ軍基地です。(沖縄県:米軍および自衛隊基地統計資料集平成27年3月より)

 では、なぜ沖縄にばかり米軍基地が集中しているのでしょうか?沖縄に米軍基地が建てられた歴史について少し学んでいってみましょう。

 まずは、太平洋戦争末期の沖縄地上戦から始まります。

 1945年3月23日よりアメリカ海軍による攻撃が開始されます。4月1日からはアメリカ軍は沖縄本土に上陸。そして、数々の悲劇が起こったことは、テレビ番組や映画、小説などによりご存知の方も多いことでしょう。ひめゆりの塔なんかは有名ですね。



 沖縄戦で犠牲になった方の名前は摩文仁の丘に建てられた「平和の礎」に刻まれています。23万7969名。アメリカ軍の兵士が1万2000人ほど。日本兵は6万5000人ほど。地元の防衛隊員が2万8000人ほど。沖縄の一般住民が13万人ほどです。

 その中でもなんとか生き残った住民らは沖縄にできたいくつかの収容所に集められます。そうして、住民らがいなくなった土地にアメリカ軍は基地を建設していったのです。日本本土での決戦を見据えてのことですね。

 実際は、本土決戦は行われず、8月15日に日本は降伏します。しかし、沖縄の基地はなくなることはありませんでした。

 沖縄という場所は地理的にアメリカ軍にとって重要な拠点となっていくんですね。太平洋戦争後も東西冷戦が激化する中、中国と台湾との対立による紛争の可能性やその後の朝鮮戦争などアメリカ軍にとってなくてはならない基地となるのです。ですから、米軍基地は減るどころか増えていきます。

 1950年12月にはアメリカ軍が直接政治をする琉球列島アメリカ民政府が設置。1952年4月には琉球政府が発足しますが、これはあくまでアメリカ民政府の支配下にありました。その後、通貨がドルになります。公用語も英語(実際は、あまり英語で会話している人はいなかったようですが・・・)、日本から沖縄に行くにもパスポートが必要となります。

 1965年にはベトナム戦争にてアメリカの空爆が開始されます。そして、沖縄の嘉手納基地からも直接ベトナムへの出撃が開始されるのです。

 この頃には、アメリカは日本以外にも韓国、フィリピン、台湾、また東南アジアのいくつかの国との間に相互安全保障条約を結んでいました。他国からの侵略行為などがあった場合、米軍はすぐさま行動できる基地が必要不可欠だったんです。それも、自由に無制限に利用できる便利な場所。米軍に統治された沖縄はこの条件にバッチリだったわけです。

 ですが、徐々に平和な道へと進んでいく日本本土を尻目に沖縄では連日、爆撃のために飛び立っていく戦闘機。住民の怒りも徐々に増していくことになります。

 1970年には、この怒りが爆発。当時、米軍の兵士による交通事故で沖縄の住民に死者が相次いで出ていました。しかし、米軍兵士の刑は非常に軽いもの、あるいは無罪となっていたんです。これらのことに住民は怒り、群衆が嘉手納基地に押し寄せたんです。これにアメリカ兵は銃を構え威嚇。これで群衆は引き上げた為、最悪の事態には至りませんでしたが、米軍で61名日本側に21名の負傷者が出ました(コザ事件)。

 これら沖縄での住民の運動。また、本土からの沖縄返還の動きもあり1972年5月15日に沖縄は日本に復帰しました。

 しかし、沖縄が本土へ復帰してからも基地となっていた土地は、地主の意志とは関係なく、その後5年間は軍用地として使えることになります。その5年が過ぎた後はどうなったかというと「沖縄地籍明確化法」が制定し、さらに5年の延長、その後は「駐留軍用地特別措置法」によって強制的に借り上げが続きます。これによって、地主が貸すのを嫌がっても、市町村の代表が署名すれば、米軍に土地を貸し出すことができます。さらに、その市町村が嫌がったら、今度は県知事が許可を出せばOK。さらに、県知事も嫌がれば総理が決断を出します。もう、どんなことになっても結局は米軍に基地は貸すんです。

 現在でも沖縄の米軍基地は返還された当時と比べて15%ほどしか減っていません(本土は60%ほど米軍基地の面積が減っている)。しかし、実際問題、米軍基地がないと商売が成り立たないといった住民も多く、基地に依存した経済構成となっている現実もあります。

 また、日本としても沖縄に変わる米軍基地の移転場所の問題。軍事費の問題などが複雑に絡み合い、解決の糸口すら見つかっていない状態といっていいでしょう。