歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記新田義貞


新田義貞


新田義貞といえば、後醍醐天皇と手を組み鎌倉幕府を倒したので有名ですね。新田義貞の生家である新田家は源氏の後を引く名門の家系。しかし、当時の新田家には役職もなく、没落しているといってもいい状態でした。



しかし、重税に苦しむ民を見て「これでは、幕府を倒して新たな政治の道を作り出した方がよい」と考え後醍醐天皇をはじめ足利尊氏、楠木正成ら目的を共にする者たちと共に鎌倉幕府を倒したんですね。当時は、元寇などにより幕府の財政は圧迫していた時だったんですね。

そして、見事に鎌倉幕府を倒す訳ですが、新田義貞に与えられた位は従四位上というもの。同じく倒幕のために戦った足利尊氏は従三位です。数字の上では3と4であまり変わらないように思えますが、実際の扱いはぜんぜん違うんですね。また国司として任官した国も足利尊氏の方がぜんぜん良いところでした。

ですが、新田義貞に対してぜんぜん良い扱いであったはずの足利尊氏がその後、後醍醐天皇を裏切り敵対するようになります。後醍醐天皇の「建武の新政」が武士を軽視していたことに反感を抱いたのです。

これに新田義貞はどう動いたか?

後醍醐天皇側に付くのでした。普通に考えれば「後醍醐天皇め。足利尊氏ばかりえこひいきしやがって。ざまぁないぜ!」って考えてもよさそうですけどね。新田義貞は最後まで後醍醐天皇の軍を率いて戦うのです。

これに関しては、後醍醐天皇への忠誠心というよりは、足利尊氏に対するライバル心で後醍醐天皇側についたのではないか?とも言われていますが本人だけが知るところですね。

1336年に「湊川の戦い」で戦略的退却を選んだ新田義貞でしたが、1338年、最終的には「藤島の戦い」で戦死しました。

湊川の戦いにて負けるとわかっていたにも関わらず勇敢に戦いを挑んだ楠木正成に対して”逃げ”を選んだ新田義貞。臆病者と評価を落とした側面もあります。

『太平記』などで新田義貞は名を残しておりますが、なんとなく足利尊氏や楠木正成に対して影が薄いのはそういったことが理由なのかも知れません。