歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記楠木正成

楠木正成

 
楠木正成(くすのき まさしげ)は1294年頃に生まれました。1336年5月25日に足利尊氏に「湊川(みなとがわ)の戦い」で敗れ亡くなります。生まれを1294年としたのは、生まれも育ちも楠木正成の前半生についてはよく分からないことだらけなのです。

生年月日、出身地、両親が誰でどんな立場であったのかほぼ謎!

しかし、この楠木正成は第二次世界大戦頃までは日本でもかなり愛されたヒーロー的存在でした。現在では、教科書でも扱いが小さくなってしまっていますけどね・・・。



この楠木正成という人は簡単に言うと後醍醐天皇に仕えた人物で「湧くがごとき智謀」といわれる戦略で鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇が中心となって政治を行った「建武の新政」の立役者となった人物です。

楠木正成の戦略はおもに籠城戦とゲリラ戦。敵をだましたり、橋を燃やしたり、落としてみたり・・・。時には糞尿をかけたりと相手が嫌がるような奇策を練って劣勢をくつがえすんですね。こういったことから三国志演義の諸葛孔明と並べられたり、竹中半兵衛と比べらえたりと日本を代表する軍師として扱われてきました。

楠木正成といえば有名なのが「
桜井の別れ」です。

楠木正成は「湊川の戦い」で敗北し自害しています。1336年に足利尊氏に数十万の軍勢にて迫られますが楠木正成側の兵力は20分の1ほど。これではさすがに勝利することは不可能と判断し、足利尊氏と和睦するかいったん引いて足利軍を誘い込んで兵糧攻めにするべきと考えていましたが、これらの進言は受け入れられず死ぬと分かっていながらも戦場に向かうほかない状況に追い込まれます。

楠木正成は同行していた11歳の息子に「お前は故郷へ帰れ」と告げますが、息子は「父と共に参ります」とそれを拒みました。しかし、正成は「自分が討ち死にした時のためだ」と息子を突き放し忠義の心をもって帝のために必ず敵を倒すよう伝えると帝から授かった菊の御紋のはいった短刀を渡し、今生の別れとしました。この話は『太平記』に記されており、昔は教科書にも載っていたので誰もが知るエピソードであったのですが、どうもこの「桜井の別れ」の当時は息子の年齢は20歳前後であったのではないか?など創作らしいとされ最近では教科書からは消えております。