南アフリカの歴史
|
南アフリカといって最初に思い出す言葉はアパルトヘイトという人も少なくないでしょう。しかし、そのアパルトヘイトも1991年に廃止。現在の南アフリカはサッカーワールドカップも開催されるなど経済成長目覚ましい国となっています。しかし、現在も格差社会の問題や治安悪化など多くの問題を秘めているのも事実です。
では、この南アフリカは、なぜアパルトヘイトを行ったのか?それらの歴史について学んでいってみましょう。
南アフリカという国はアフリカ大陸のもっとも南に位置する国です。最古の人類ともいわれるアウストラロピテクス・アフリカヌスでも有名ですね。ですから、かなり古く(300万年前)から人が住んでいた場所であるわけです。
その後、3000年から2000年前にはコイコイ族やブッシュマンと呼ばれるサン族が住むようになります。ブッシュマンはお父さん、お母さん世代では知っている人も多いのではないでしょうか?昔、映画がありましたね。コーラの空き瓶を拾ってびっくりするような内容だったと思います。
3世紀ごろになるとバンツゥー族が南下してきてコイコイ族やサン族を追い払いながら居住圏を広げていくことになります。
10世紀頃から14世紀ごにかけては北部の丘、マプングブエにて王国が存在した跡が残っており、現在は世界遺産となっています。
そして、1488年、ポルトガルのバーソロミュー・ディアスがインド航海の帰路、喜望峰を発見。1497年にはポルトガルのブァスコ・ダ・ガマが現在のナタールに到着します。
ですが、この地には何にもないんですね。ですから、その後、100年間以上も誰も見向きもしません。
1652年になりオランダがやっとこの地に目をつけます。ケープタウンにオランダ人居留地を作りオランダ人を送り込んでいくのです。
1700年代後半になるとイギリスも南アフリカの地に興味を示し始めました。当時はナポレオン全盛期。イギリス以外の国は皆、ナポレオンに制圧を受けていたんですね。オランダも同様です。イギリスは、その隙をついて1795年にケープタウンを占拠します。イギリスも移民を送り込み、イギリスの支配が開始されます。
こうして、南アフリカではもともと住んでいた黒人。そして、生まれた時から南アフリカにいたオランダ人。イギリス人たちが争いだすことになるのです。
オレンジ自由国として1854年にオランダ人(ボーア人という)が立てイギリスに独立を認めさせていた地域にてダイヤモンドが発見されると1871年にはイギリスはダイヤが採れる産出地を占拠しキンバリーと名付け、ケープ植民地に編入するなど各々の利権なども絡み合い争いは激化してきます。
1910年になるとイギリスはケープ植民地、トランスバール州、オレンジ自由州、ナタール州からなる南アフリカ連邦を設立。イギリスは幾度となく繰り広げられる争いに勝利し勢力を広げるのでした。
しかし、南アフリカ生まれのオランダ人たちの反発を防ぐため、彼らの自治権もある程度認めます。最初の首相には彼らオランダ人の中から選ばれました。
ですが、イギリス人とオランダ人の経済的な格差などがかなりあったんですね。なので彼らの人権を守るために黒人の人種差別を白人が始めるのです。
1911年には黒人が働ける労働の種類を限定。1913年には黒人が所有できる土地を限定。
1931年に南アフリカは事実上のイギリスからの独立を認められます。しかし、その後も人種差別は加速していくことになるのです。
1939年には黒人から選挙権をはく奪。第二次世界大戦が終わると、白人に支配されていた地域にて黒人による民族独立の動きや人種差別反対の活動が活発化していき、また世界的な世論もこれを応援する風潮になっていきますが、これに反発するように南アフリカでは黒人差別ひどくなっていきます。
これが、オランダ語で分離を意味する「アパルトヘイト」です。
1949年には異人種間での結婚を禁止。1950年には国民を4つの人種に種別する人民登録法を制定。
国連などは経済制裁などを加えて差別をやめさせるように仕向けますが、なかなか有効な策は打つことができません。
ですが、イギリス系の財界人が南アフリカから出ていってしまったり、諸外国からの制裁を受けたりと経済的にもちょっとピンチになっていくんですね。
そして、1990年。若いころから反黒人差別を訴え、長いこと投獄されていたネルソンマンデラついに釈放されると風向きは一気に変わっていくのです。
1991年にアパルトヘイトは廃止。1994年にはネルソンマンデラが大統領に就任しました。
南アフリカでは、悪名高いアパルトヘイトは廃止され、経済発展も遂げていますが、黒人間での経済格差も広がり、治安の悪化など現在でも多くの問題を抱えているのも事実です。
>アフリカ独立の歴史
|
|
|
|