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あさま山荘事件

 
 若い方でも「あさま山荘事件」のことを知っているという方は多いのではないでしょうか?クレーン車で吊った大きな鉄球で壁をぶち壊す映像は何度もテレビで映し出されていますよね。

 しかし、この「あさま山荘事件」の経緯を詳しく説明できる方は少ないのかもしれません。

 では、今回はこの
あさま山荘事件について深掘りしていきたいと思います。
 
 時代は1960年代後半。ベトナム戦争に軍事介入したアメリカに対して世界中で批判が集まっておりました。日本でも高度経済成長の傍ら、反戦運動や反米の声が高まっていきます。

 1968年1月にはエンタープライズ寄港阻止事件。これはアメリカの原子力空母エンタープライズが長崎県佐世保に寄港するのを阻止するために全国から47000人もの人々が集まり抗議活動を行いました。また、1970年に自動更新される日米安全保障条約に反対した第二次反安保闘争。1971年11月には沖縄返還協定への反対から渋谷駅周辺で暴動が起きます(渋谷暴動事件)。これらは、学生ら若い人たちが中心となりましたが、反米、反政府、学園紛争などが結びつき、次第に暴力的な行動もエスカレートしていくことになるのです。

 当初は、彼らに対して世論も理解をしていた部分はありました。それらを背景に彼らの間で多くの組織が生まれ、そして分裂していくことになります。

 1972年に全学連から分裂に分裂を重ねて現れた「
赤軍派」、日本共産党の反党グループ(日本共産党が武装闘争路線を取り下げたことから生まれた)から登場した「京浜安保共闘」。この団体らが合流して「連合赤軍」が結成されます。この連合赤軍が後にあさま山荘事件を引き起こすことになります。

 なぜ、2つの団体は結びつくようになっていったのか?

 京浜安保共闘は猟銃を扱っているお店から銃と弾薬をあるったけ盗み、それらを保持していたんです。それを欲していたのが赤軍派。赤軍派はよど号ハイジャック事件で主な幹部は北朝鮮に逃亡しており、その後は郵便局や銀行を襲い資金がありました。新たな赤軍派メンバーは銃を欲していたんです。逆に、資金に困っていたのが京浜安保共闘。彼らの利害は一致し合流したわけです。しかし、その後は赤軍派と京浜安保共闘はお互いに主導権を握ろうとあらぬ方向に向かっていってしまいます。

 連合赤軍が結成される前に京浜安保共闘からは2人の脱走者が出ておりました。小説家になりたいという男性と彼氏と暮らしたいという女性。まぁ、若いのでこれらの夢や幸せを抱くのは当然ですね。しかし、団体としては困ってしまうんです。彼らは、犯罪組織ですから警察から追われています。アジトが彼らによってバラされたら全員が捕まってしまうんですね。実際、京浜安保共闘は、脱走者が出てからはおよそ1ヵ月置きに山梨、神奈川、静岡と山岳ベースのアジトを変えておりました。

 そんな中での連合赤軍の結成です。赤軍派は、京浜安保共闘に対して、彼らを殺すように提案します。脱走者を見逃せば、今後も脱走者が出てしまう可能性がある為でしょう。赤軍派のメンバーに甘い部分を見せたくなかった京浜安保共闘は、その提案を受け入れ脱走者2名を探し出し殺してしまうのです。

 やがて、彼ら連合赤軍は群馬県の榛名山に拠点を移動します。潰れた温泉宿の資材を使って小屋を建てたといいます。そして、本格的な赤軍派と京浜安保共闘との共同生活が始まります。当初の連合赤軍のメンバーは29名です。

 ですが、ここからが狂気の始まりです。お互いに自分たちを大きく見せようと暴力的な行動が目立つようになっていくのです。

 初めはメンバーの男女二人がキスをしていたというのが切っ掛けとなり、彼らに「総括」という名のもとに集団リンチを行います。総括というのは、最初は一日の反省をして次はこうしようとか討論をすることを言っていたのですが、この辺りからは総括は集団リンチへと変貌していきます。男女二人を集団リンチしていた時に「今のは個人的な恨みで殴っただろう!」と1人の男性も巻き添えとなり、その日、集団リンチを受けたのは3人。この3人が最初の犠牲者となり亡くなってしまいます。

 その後も些細なことで集団リンチは行われ次々に犠牲者が増えていきます。指輪をしていたという女性、自殺を考えていたと疑われた男性、総括中に暴言を吐いたという男性、総括中に積極的でなかったという男性。

 拠点を榛名山から同じく群馬県の迦葉山に移してからも統括をいう名の集団リンチは続きます。

 運転ミスの男性、活動資金で美容室に行った女性、幹部に色目を使ったと疑われた女性と何と1ヵ月で11人ものメンバーが集団リンチによって殺されてしまいます。

 そんな中、赤軍派のリーダー森恒夫と京浜安保共闘のリーダー永田洋子は活動資金を得るために森を降ります。

 仲間が次々に殺されていく中、脱走したいと考えている者にとって、これは大チャンスです。実際、その日も集団リンチによって殴られ、手足を縛られ、極寒の床に放り投げられていたメンバーもいましたので次は自分かもしれないと当然考えていたでしょう。

 3人ものメンバーがこのチャンスを逃さずに脱走しました。もし、その中のメンバーの1人でも警察に逃げ込んでしまえば、当然、アジトに警察が乗り込んできます。脱走を知った残りのメンバーは、すぐさま迦葉山のアジトを解体し、群馬の妙義山を目指しますが、リーダーの森と永田に伝える必要がありますので5名は山を降り、二人のもとを目指します。

 妙義山では、もはや、ここでは小屋をつくったり、空家を探す余裕もなく洞窟でしのいでおりました。しかし、冬山での生活です。彼らは集団リンチを受け、体の弱っていたメンバーも連れてきましたが極寒の生活に耐えられる息絶えます。これで12人目の集団リンチによる犠牲者です。

 一方、森と永田に状況を伝えるべく山を下りた5名ですが、途中で泥にタイヤを取られて動けなくなってしまいます。丁度、その頃、棒名山での山岳ベースの後を発見していた警察は群馬県警350名により大規模捜査をしていた最中でした。それに彼らの車が引っ掛かります。職務質問を受けている最中に3名は逃走。2名が捕まりました。

 幹部の森恒夫と永田洋子も資金を調達しアジトに戻ろうとしたところを警察に発見され逮捕。

 職務質問から逃れた彼らは他のメンバーの元に戻ります。そして、群馬から隣接する長野県の佐久市を目指します。群馬から長野に移動できれば、しばれくは警察も追ってこれないと考えたのです。しかし、途中で彼らは軽井沢に迷い込んでしまいます。

 ちょうど食料も尽きてきた頃。この時、メンバーは9名でしたが、その中の4名が食料調達の為に山を降りました。

 1972年2月19日朝。軽井沢駅で汚れきった洋服で異臭を放つ男女に不審に思った売店の女性が警察に通報。4名がつかまります。

 残されたメンバー5名は、これをラジオで知ると軽井沢レイクニュータウンで無人だった「さつき荘」に逃げ込みますが、そこにも警察の手は伸びておりました。食料をくすね休憩していたところを発見され、機動隊員に発砲。

 そうして、逃げ込んだのが「あさま山荘」です。

 彼らは、管理人夫人の牟田泰子さんを人質として立てこもり、警察は「連合赤軍軽井沢事件警察本部」を設置。632人からなる警備部隊を編成し、338人で「あさま山荘」を包囲しました。

 これが10日間にわたって繰り広げられるあさま山荘事件の始まりとなります。

 京浜安保共闘が起こした銃砲店強盗事件とアジトの捜査結果から銃が最大で5丁、弾薬が2800発、アジトで発見された鉄パイプ爆弾などを所有していると警察は推測。また、銃で攻撃してくるところを撮影し、犯人の特定を急ぎます。

 そして、山荘への電気をストップ。放水と催涙ガス弾。また、犯人の親による説得を繰り返しますが、一向に出てくる気配はありません。

 そうこうしているうちに人質の心身の健康状態は限界に達していることも考えられたため、2月28日に警察は強行突入を決意。

 クレーン車に吊った大鉄球で壁を破り、大量の放水とガス弾で攻撃。犯人側も銃で応戦。8時間以上も続く攻防戦の結果、メンバー5人は逮捕。人質も無事救出となりました。彼らは、あさま山荘に立てこもっている間、何の要求もしてきませんでした。もはや、彼らに正当な理由もなく、引くに引けない状態で暴力に頼り立て籠るしかなかったわけです。

 事件発生以来、連日報道されていたこのあさま山荘事件は、この突入時にピークを迎え総世帯の最高視聴率は89.7%を記録。

 しかし、このあさま山荘事件によってクレーン車や放水車を指揮していた高見警部。敵情視察中の内田警視が殉職。山荘付近で民間人も1人、銃により死亡しています。負傷者も警察側で26人。報道関係者が1人でました。

 その後、犯人の証言から集団リンチ殺害の実態が明らかとなり、供述により群馬県内の3ヵ所から遺体12体が発見。この他、千葉県印旛沼付近で2名の遺体が発見(最初に脱走した2名)されます。

 あさま山荘事件により主要幹部が逮捕された連合赤軍は壊滅状態となり、残されたメンバー赤軍派は共産主義国に拠点を置き「その国の支援を受けて軍事訓練を行い、世界革命を起こす」という方針で活動を始めることになります。