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安保闘争

 
 安保闘争とは、日米安全保障条約に反対した人々による反政府運動のことをいいます。

 昭和35年(1960)の第一次日米安全保障条約反対闘争と昭和45年(1970)に頂点をむかえる第二次日米安全保障条約反対闘争とがあります。

 特に第二次反安保闘争は、国内の左翼勢力に学生、労働者らが呼応して放火、生涯、器物破損などといった大規模暴動につながり、東京大学の安田講堂を学生らが占拠し機動隊が突入するというテレビで現在でも何度も放送されている衝撃的な事態となりますのでご存知の方も多いでしょう。

では、この安保闘争とはどういったものだったのでしょう。少し深掘りして見ていきましょう。

 
第一次安保闘争(旧安保から新安保への不安)

 戦後、日本はサンフランシスコ平和条約と共に
旧安保条約(旧日米安全保障条約)を結びます。これは、日本にはアメリカに基地を貸す義務があるがアメリカは日本に対して防衛の義務はないという不平等条約でした。

 これを何とかしようと当時の岸信介首相はアメリカと交渉。当時は、冷戦によってソ連とアメリカが争っていた時代。ソ連は人類初の人工衛星を打ち上げるなど冷戦も新たな局面を迎える中、1960年に結ばれたのが
新安保条約(日本とアメリカとの間の相互協力及び安全保障条約)です。人工衛星やミサイル開発などの宇宙開発競争で出遅れをとっていたアメリカは、日本を対ソ連の最前線基地として活用しようと考えていたんですね。これにより、日本は基地を貸すだけの立場から日本とアメリカは相互に協力するということとなります。

 う〜ん。いいことですよね。日本にとっては良いことです。

 しかし、これに日本国内では激しい反対運動が起こったのです。

 主な理由は、「日本が戦争に再び巻き込まれる」「これは軍事同盟ではないか」といった不安。岸信介首相が元A級戦犯であったことも結びつけられて攻撃されます。新しい日米安全保障条約では、「日本がやられた時にはアメリカが助け、日本国内のアメリカ施設が攻撃された時には日本が助ける」また「双方への軍事増強義務」などがありますので戦後の記憶が新しい当時としては、不安も当然でしょうし、過激な行動を起こしてでも止めなければと感じた人が多かったのも何となくわかります。

 しかし、条約は締結後に国会での承認が必要です。

 国会は1960年2月より始まりました。日本社会党は日本がアメリカの戦争に巻き込まれると猛反対。国会での審議は揉めに揉めますが、衆議院日米安全保障条約等特別委員会は、採決阻止を訴え座り込みを続ける日本社会党などの議員を警官によって排除。1960年5月19日には委員会で強制採決を強行し、翌日の衆議院本会議でも可決となります。

 この強引なやり方が火に油を注ぐ事態となり、反安保闘争は大きく動き出します。社会党を支持する日本労働組合総評議会が主導権を握った「安保改正阻止国民議会」の号令で560万人もが集い、大規模な集会やデモが国会議事堂の周囲や全国で展開されていくことになるのです。

 これらに学生らも刺激を受けます。全学連は、共産主義者同盟(ブント)という武装闘争路線を引っ込めた日本共産党に対して反感を抱いた学生らが結成した団体の傘下となり反安保、反米運動を展開。

 混乱の中、参議院では議決を後回しにしますが、衆議院での可決は済んでいますので衆議院の優越によって条約は衆議院で可決されてから30日の間に参議院での採決がないと自動承認されることになります。

 これを止めるべき反安保運動は過激さを増していくことになります。
 
 1960年6月10日。安保条約の締結を見越して締結後にアイゼンハワー大統領が日本を訪れる予定となっておりましたが、それに先立ち来日したジェームス・ハガティ報道官が羽田空港で大統領来日反対を叫ぶ全学連のデモ隊に囲まれ、海兵隊のヘリコプターによって脱出するという事件が起こります。これによって、フィリピンまで来ていたアイゼンハワー大統領に日本側から訪日の辞退を申し出る結果となりました。

 さらに6月15日には、ついに死亡者も出ることになります。国会議事堂前のデモ隊が衆議院南通用門から国会内に突入した際、東大生の樺美智子さんが機動隊との衝突で圧死してしまったのです。これで一段と激しさを増す反対闘争。

 しかし、6月19日には新安保条約は自動承認。また、岸首相が辞意の表明をすることで反安保運動は急速に落ち着いていくことになります。

 当時の安保闘争は反安保と同時にA級戦犯容疑者ともなった岸首相への反感も強かったんですね。新安保は締結してしまったが、岸首相は退陣に成功したので熱が冷めていくことになりました。

 
第二次反安保闘争(東大安田講堂事件)

 さて、日米安全保障条約は第10条で10年の有効期間が経過した後、日米いずれか一方の意志により、1年間の予告で破棄することができる旨を規定しています。それがない場合は継続ですね。

 この自動延長を阻止しようと始まったのが第二次反安保闘争です。ですから第一次反安保闘争とちょうど10年経った頃がピークになりました。

 始まりは昭和42年(1967)10月8日の佐藤栄作首相の東南アジア歴訪への反対です。当時は、ベトナム戦争の渦中。歴訪する国の中にアメリカ側であるベトナム共和国(南ベトナム)が含まれていました。それに支援、加担するものとして反米闘争が始まり、ヘルメットとゲバ棒を持った左翼過激派がおよそ1万人羽田に集結。多くの重軽症者がでる大事件となります。

 その後、11月12日にはアメリカ訪問をする佐藤首相を止めようと第二次羽田闘争も起きます。

 昭和43年(1968)になると安保の自動延長を阻止するために「佐世保エンタープライズ帰港阻止闘争」「沖縄デー闘争」「新宿駅騒動事件」といった左翼の動きが激しさを増し、大学でもベトナム戦争に反対する運動が活発化。各地で大学紛争や学園紛争が起こります。

 
東大安田講堂事件

 東大でも1968年、医学部の民主化を求めたインターン闘争を皮切りに学生や研修医の処分をめぐり、大学当局と自治会との間で話し合いが縺れていました。そんな中、自治会から離れた学生らが安田講堂を占拠します。これに大学側は警視庁機動隊に要請をして学生を退去されました。

 しかし、これには学生らから批判が相次ぎます。そして、学生らは再び安田講堂を占拠。これに新左翼(セクト)が加わり東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)を結成。医学部での処分の撤回や機動隊導入への謝罪などを求めてますが、大学側と折り合わず、次第にエスカレートしていくことになります。

 泥沼化していく中、大学側では総長と学部長全員が辞任をし、医学部処分の白紙撤回を定めた確認書が取り交わされ、多くの学生は納得し、その場を去りますが、少数派となった全共闘は、今度は東大解体を訴え安田講堂の占拠、封鎖を継続。これで大学側は、これ以上の話し合いは無理だとし、再び機動隊の派遣を警視庁に依頼。学生との闘争の末、638人の学生を検挙しますが、この中で東大の学生は38人しかおりませんでした。

 この事件により、東大は、この年の入学試験は中止。

 また、1年以上授業も入学、卒業式も出来ないような状態の大学は廃校とするという「大学の運営に関する臨時処置法」の成立によって各大学も一斉に警察へ学校封鎖解除の要請を出すこととなりました。

 第二次反安保闘争は、学園紛争やベトナム反戦運動、成田空港問題、沖縄返還運動など当時の政治や社会への不満が絡み合い過激化していきました。日米安全保障条約の自動延長への反対よりも全共闘を中心とした学生運動の色合いが強く、また全共闘と共産党系との闘争路線をめぐっての内輪もめなどもあり、次第に世論の支持は得られなくなっていきます。

 そして、安保条約が自動延長となった昭和45年(1970)6月23日以降は次第に終息。しかし、学生や労働者の支持を失った新左翼は一層、過激化してくことになります。