歴史年代ゴロ合わせ暗記 

歴史年代ゴロ合わせ暗記>吉田茂

吉田茂


 吉田茂(よしだしげる)は、1878年9月22日、東京府神田駿河台で土佐藩士の竹内綱の5男として生まれます。竹内綱は、板垣退助の盟友で自由民権運動の壮士でした。

 吉田の苗字なのに父親の苗字は竹内って変ですよね。実は、3歳の時に茂は養子に出されているんです。養子に貰ったのが吉田健三という自由民権運動を金銭面で支援していた人物、横浜で貿易商を営むお金持ちでした。

 ところが、吉田茂が11歳の時に養父が突然の不幸により亡くなってしまいます。この事により、吉田は現在の価値で20億という遺産を相続したといわれています。



 28歳で東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、外務省に就職。清国の天津に就任します。

 31歳で牧野雪子と結婚。牧野雪子という女性は大久保利道の孫です。結婚後は、ロンドン、イタリアへと赴任。

 33歳で朝鮮半島の安東に赴任。この当時、寺内正毅首相から「秘書官にならんか」と誘われましたが「総理なら務まりますが、秘書官は務まりません」と一介の外交官の身分でありながらきっぱり断ったというエピソードがあります。まぁ、お金はありましたからね。かなり傲慢さもみせていたようです。
 
 その後も各国の領事館で長く外交官として働き、50歳で外務次官に就任。そして、61歳で外務省を退官しました。

 その吉田茂が1945年には刑務所に入り、さらにその1年後には総理大臣になるわけです。いったい、何があったのでしょうか?

 実は、吉田茂は、イギリスびいきであり、日独伊三国同盟にも批判的な意見を述べていました。こういった事が軍からいいように思われず特命大使、つまり国外に派遣されるのを待機して待つ立場となり、その後、外務省を退官となっていたのです。

 しかし、太平洋戦争での戦局も悪化してくると、吉田茂は近衛文麿元首相らと水面下で和平工作を探ります。軍は彼らを「ヨハンセングループ」と呼んで警戒しました。吉田らの反戦グループというそのままのネーミングですね。

 そして、1945年4月に吉田は、憲兵隊によって投獄。1ヵ月ほどで釈放されますが、この事が敗戦後に優位に働くことになります。

 なぜなら、敗戦後、占領軍は戦争に関わった人物らを拘束しにらみを効かせるわけですが、吉田茂は逆に憲兵に逮捕されていますからね。平和主義者と理解された訳です。

 終戦直後には、吉田茂は外務大臣として入閣しました。その後、鳩山一郎率いる自由党が第一党となりますが、鳩山は戦前に軍と同調していた時期があるということで公職追放。そのピンチヒッターとなったのが吉田茂でした。

 その時、吉田茂は68歳。内閣総理大臣と共に外務大臣も兼任です。

 その後の吉田の主な政策は、日本国憲法の公布と施行。サンフランシスコ講和条約への調印。自衛隊の創設などです。

 吉田首相時代の有名なエピソードが「バカヤロー解散」ですね。

 1953年3月14日、通産大臣の「中小企業の一部の倒産はやむを得ない」「貧乏人は麦を食え」といった問題発言に対して野党から執拗な質問を受けた吉田茂が小声で「バカヤロー」と呟いたのをマイクがばっちり拾ってしまった為に問題となり衆議院解散にまで発展したという出来事です。吉田茂というと「バカヤロー解散」。大声でバカヤローと怒鳴ったと思われがちですが、実は、小声で呟いたのをマイクが拾ってしまっただけなんですね。

 さて、吉田茂は戦後の日本をつくったなどともいわれますが、なぜなのでしょう?

 まず、日本国憲法ですが、もともと自由党内では、アメリカからの占領が終わったら改正しようという方針でした。しかし、1950年に朝鮮戦争が起き、アメリカも日本の軍の拡大を期待します。ですが、吉田茂は軍が嫌い!戦時中に逮捕されたり、いじめられてますからね。ですから、自衛隊の拡大を抑え、旧軍の上級将校が入隊することなどを制限しました。

 また、吉田茂は共産主義も大嫌いです。天皇に対しては尊敬の念をもっておりましたが、天皇制を維持した共産主義になることを恐れ自由な議会政治を理想とし尽力しました。

 また、吉田は戦後、政権の人事を握り自民党の基礎を築き、後の首相となる池田隼人や佐藤栄作、田中角栄らを育てました。

 つまり、現在も残る日本国憲法や自衛隊、自民党といったものは吉田茂が首相でなければ残っていなかった可能性もあったというわけです。