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歴史年代ゴロ合わせ暗記歴史の真実>朝鮮出兵は信長の発想

豊臣秀吉の朝鮮出兵は信長の発想


 1592年の秀吉朝鮮出兵。今となっては「まぁ、なんと無茶なことを・・・」なんて結果を知っているので言えますが、秀吉自身は朝鮮どころか(中国)、そして天竺(インド)までも切り開く!といった発想をもっていたようです。



 朝鮮出兵にて高麗の首都である漢城を陥落させたとの知らせを受けた秀吉は、甥っ子である秀次に宛てた手紙にて『天皇は明の北京へ移して、その周りの国を10ヵ国与えよう。日本の天皇は良仁親王でもよいし智仁親王でもよいのでどちらかになっていただければよい。秀次には明の関白になってもらい100ヵ国を与えるぞ。日本の関白は羽柴秀保か宇喜多秀家。どちらかに任せよう。高麗には羽柴秀勝か宇喜多秀家。九州には羽柴秀俊あたりか・・・』といった構想を書き綴っています。

 また、京の公家たちには、自分は明の寧波府に城を構えて天竺にも進出したいといったことを述べています。

 スケールの大きな発想ですね。

 しかし、この発想は秀吉自身のものだったのか?

 宣教師フロイスは『信長は日本を統一したら次に明を征服して国々を部下たちに分け与えるといった発想をもっていた』と信長の死を報告する一節に記しています。

 つまり、秀吉は信長から明征服の発想を聞かされていた可能性は非常に高いわけですね。無茶な戦争で秀吉の汚点とされることの多い朝鮮出兵。しかし、彼は尊敬する信長の夢を最後まで追い続けていたのかもしれません。