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特攻隊とは


 特攻隊とは、太平洋戦争末期に日本軍が採用した戦術のひとつで人間を航空機や特殊兵器に乗せ突撃させるという戦術です。爆弾を積んだ飛行機や兵器に乗ったまま自爆突撃を行いますので非人道的な戦術ですが、なぜ日本はこのような戦術を行うことになったのでしょうか。

 日本軍が初めて米軍の機動部隊に対して組織的に行った「特攻」は1944年の10月のレイテ沖海戦、またその後のフィリピン攻防戦です。

 この特攻という戦術を始めて実行したのは日本海軍の第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将。1943年半ばより特攻という戦術の発案はされており、1944年7月には人間魚雷「回天」の開発が始まり、1944年8月にはモーターボートに爆弾を積んだ「震洋」が兵器として採用。1944年9月には爆弾とロケットエンジンを組み合わせた人間爆弾「桜花」を扱う部隊が編成されました。

 ですが、1944年半ばまでは大西中将は特攻に対しては否定的であり、推進していたのは現場の士官や上層部であったといわれています。

 大西が特攻を決断せねばならなかったのは1944年のマリアナ沖海戦にて日本軍が400機にも及ぶ航空機と搭乗員を失い、戦力の弱体化が問題視されたことが理由といわれております。

 もはや、戦力が激減した航空隊では正攻法でアメリカ軍に勝利することは不可能でと判断した大西は遂に爆弾を積んだ航空機に出撃を命じ、1944年10月12日に関行男大尉を隊長とする「
神風特別攻撃隊」はアメリカ空母部隊へ向けと飛び立っていきました。

 大西としては、特攻を1度限りの緊急手段と考えていたようですが、関大尉の部隊は護衛空母1隻撃沈、3隻の空母を小中破させるという成果を上げたために海軍だけでなく陸軍までもが特攻を正式に採用。その後、特攻は全国の部隊で行われるようになっていきました。

 戦後、大西は特攻の責任をとるかたちで自殺しました。

 最初に特攻という戦術を決断した大西中将ですらも当初、特攻には否定的な意見でした。また、戦後にはその責任から自殺を決意しているわけです。つまり、非人道的だとわかっていても絶対に勝たねばならないという状況下の中、異常な決断をしいられてしまったわけです。戦争とは、こういった異常な決断が多くされてきました。どんなに優れた人間的にも素晴らしい人格者であってもそういったものを狂わせるものがあるわけです。