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大化の改新はなかった?

645年6月、蘇我蝦夷、入鹿親子が中大兄皇子と中臣鎌足に倒されるクーデターが起きました。

その後、天皇を中心とした中央集権・官僚制にもつづく新しい政治体制を作ろうと改革が行われます。

この蘇我氏暗殺事件を「乙巳の変」といい、その後出された「改新の詔」と合わせ、これらの国政改革を「大化の改新」といいます。

しかし、近年になり、この大化の改新はなかったのではないか?という大胆な仮説が立てられました。

そもそも、大化の改新については、日本書紀に詳しい内容が書かれているのですが、その他の当時の文献には大化の改新のことが書かれていないんですね。しかも、その日本書紀でも、大化の改新の記述がちょっとおかしい・・・。

日本書紀に書かれている大化の改新の記述は大宝律令と完全に一致する文が多数存在するのです。

大化の改新は645年ですね。大宝律令は710年です。ちにみに日本書紀の完成は720年です。「大化の改新がなかった」と考える歴史家の人たちによれば、日本書紀の編纂の時に本来なかった大化の改新を”ある理由”であったことにしちゃいましょうと考えた者たちがいた。でも、なかったものをあったとするのは大変。「そうだ!ちょっと前に大宝律令できたよね。写しちゃおうぜ!」ってことで日本書紀に書かれた大化の改新は大宝律令をちょっとコピーして書かれたのもだといいます。

でも、なんでそんなことする必要があるのか?日本書紀の編纂には、さまざまな有力者が関わっており、中でも藤原不比等の影響力は絶大だったといわれています。この藤原不比等の父親が中臣鎌足。そう、大化の改新にて中大兄皇子と共に蘇我氏を滅ぼした人物ですね。藤原不比等にしてみれば、父親を英雄として自分も地位も揺るぎないものにしようと考えたとしても不思議ではありません。また、この藤原不比等は、大宝律令の編纂にもかかわっています。

つまり、改新の詔は藤原不比等らによって捏造されたもので、本当に律令体制が整い始めたのは、675年ごろ。蘇我氏を滅ぼした乙巳の変と天皇中心の国政改革は、実際関係はなかったというのです。

しかし、これには反論もでています。中大兄皇子の叔父にあたる孝徳天皇の王宮後が発掘され、それが壮大な規模であったことがわかっています。これほど大規模な王宮が当時存在したということは、当時の天皇の権力も大きかったと考えるのが妥当。この孝徳天皇は大化の改新の時代の天皇であり(在位645年〜654年)、このような権力を誇るには大化の改新のような国政改革が必要不可欠であったはずであるというのです。

日本書紀については、藤原不比等の影響力が強く、藤原氏の活躍を強調して書かれたといわれていますが、現在では、大化の改新すべてがなかったという説はやや下火となっているようです。しかし、新たな木簡などの史料が見つかれば、真実に近づく日も来るかもしれませんね。