大宝律令
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大宝律令(たいほうりつりょう)とは、中国の律令を手本として作られた、本格的な刑法(律)、行政法(令)の制度のことです。710年に完成し、当時の年号から大宝律令と名づけられました。
では、その大宝律令について、すこし詳しく見ていきましょう。
天皇を頂点とする、律令国家(本格的な刑法と行政法をもった国家)の構想は古くからありました。
ほら、大化の改新にて蘇我氏を滅ぼしたのは中大兄皇子でしたよね。その皇子は後に天智天皇となりますが、彼は668年近江令(おうみりょう)といわれる、日本発の「令」行政法を制定したと言われています。これが、初めての行政法(令)であったと言われていますが、この時点では「令」のみで「律」はまだありませんでした。
そして時代は少し後になり672年壬申の乱にて勝利した天武天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の時代には、どうしても断ち切れなかった、中央豪族の政治干渉を排除し、661年に律令制定を命じます。
そして、彼が亡くなった後の689年には持統天皇によって飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が施行されます。これにより、戸籍制度や地方制度、班田収授法などの制度を始められました。しかしながら、現存しない為かなり不明な点も多くあり、この時代であってもまだ、令(行政法)のみで律(刑法)はなかったと言われています。
そして、やっと本格的な律令が出来たのが文武天皇(もんむてんのう)の時代で701年でした。唐の律令をまねて作られたのですが、日本に合うようにちょっと変えてあります。
唐の律令制は、「三省六部」。皇帝に直属する3つの省が配下の6部を通して皇帝の命令を実行する形式。日本の律令制では、行政を行う太政官と祭祀を行う神祇官とに分け、太政官の下に8つの省を置く「二官八省」を採用しました。
って、うーん。ちょっと難しい話になってきましたかね。まぁ、大雑把に言うと645年の大化の改新の頃、或いはもっと前の聖徳太子の時代から天皇を頂点とした強い国家づくり(律令国家)の構想はあったけれども、いろいろな事情があって、なかなか形にできなかった訳です。
それが、壬申の乱など長い道のりを経て、やっとのことで天皇を中心し本格的な行政法、刑法を持った「律令国家」を完成させることができたのですね。それが710年でした。これが、大宝1年のことだったので、日本初の本格的な律令政治の基本法を大宝律令と呼びます。
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律令による税 |
国税 |
庸(よう) |
歳役(都での年10日の労役)の代わりに麻布約8m |
調(ちょう) |
各地の特産物 |
地方税 |
祖(そ) |
田1段につき、稲2束2把(稲ひとつかみみが1把、10つかみで1束) |
雑徭(ぞうよう) |
年60日以内の労役(757年の改正で半減される) |
(天皇中心の国家づくりの為、これら統治の仕組みや税などの細かな決まりごとが大宝律令によって定められました)
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