1853年、アメリカのマシュー・ペリーが率いる4隻の黒船が浦賀(神奈川県、三浦半島)に来航しました。当時、鎖国を行っていた日本ですが、彼らは日本に開国を迫ってきます。その時、日本はどうしたのでしょうか?ちょっと詳しく見てみましょう。
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが率いる蒸気船4隻が1853年に浦賀にやってきました。その黒船は、当時の日本で造っていた最大の船のナント25倍!
言うなれば、魚釣りで1メートルのフナを釣って「おぉ、でかいの釣ったぞ!」と喜んでいたら、そこに25メートルのフナがゆうゆうと目の前を泳いで横切っていったようなもの。それも4匹も・・・。まさに、規格外の大きさだった訳です。
そして彼らは、日本に開国しろと迫ってくるのです。ちなみに、ペリーが率いてきた黒船はれっきとした軍艦。完全にビビッてしまうのも無理はありません。ちなみに当時の町のうろたえぶりを詠んだ有名な歌があります。
「太平の眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たったしはいで 夜も眠れず」
「上喜撰というのは高級なお茶でそれを4杯飲むだけで夜も眠れなくなる」という意味と「天下泰平であったのに蒸気船が4隻来ただけで夜も眠れぬほど人々は大慌てしている」という2つの意味を上手くかけた歌です。
そんな訳で幕府は仕方なしにペリーが持ってきたアメリカ大統領フィルモアの親書を受け取るのですが、すぐに決めるのは無理だから1年待ってくれと先延ばしをします。
しかし、なぜアメリカは日本に開国を迫ってきたのでしょう?実は、当時アメリカは太平洋で捕鯨、くじらを捕まえていました。くじらからは油もとれるし食料にもなる。そのくじらを太平洋で捕鯨するにあたって食料と燃料の補給ができる場所が欲しかったわけです。いちいちアメリカまで帰っていたら時間と手間がかかりますからね。そこで、いい場所があったと目を付けたのが日本だったのです。
さて、1年先延ばしにしてとりあえず、黒船を追い払った幕府ですが、ここからが大変です。1年とは長いようで短い・・・。当時の老中 阿部正弘(あべ まさひろ)は、国の一大事として朝廷に報告、大名や町人たちにまでも意見を聞きます。今でこそ、広く意見を聞くことは当たり前でいいことですが、当時これはかなり異例の事態。だってそれまでは、幕府がすべてを決めて、朝廷や大名の意見などお構いなしだったわけですから。ところが、今回は皆に意見を聞こうと言うことになってしまう。これがまずかった・・・。
今までは、幕府に不満を抱きながらも従うしかなかった大名。また、天皇ですらも幕府の前では自分の意見を貫くことはできなかった訳ですが、今回は幕府から意見を聞かせてくれと頼まれる。
当時の天皇 孝明天皇(こうめいてんのう)は、開国などとんでもないと大反対!
この時、天皇や大名達に意見を聞いてしまったが為、幕府の絶対的な地位は崩れ、後に朝廷や大名の発言力が増していくこととなるのです。
翌年、約束通りペリーはやってきます。今度は7隻もの軍艦を引き連れて・・・。「もちろん、開国するよね?」という圧力がそれだけでも感じられます。やむを得ず、幕府は開国を決意。(結局、朝廷や大名に意見を聞いても結果、こうなってしまった・・・)
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結び、下田と函館の二港を開きました。しかし、勘違いしがちですが、この時は、まだ貿易はしていません。あくまで燃料や食料の補給を許可しただけです。
その後、イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結ぶことになり、215年間続いた鎖国は終わりを告げます。
語呂合わせ:いや!ゴミ(1853)だらけ!当時すでに日本の浜辺にはゴミが散乱していたという話もあります。ペリーが浜辺を見て「いや〜!ゴミだらけじゃん!」と叫んでいる姿を頭に入れると覚えやすい!
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