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歴史年代ゴロ合わせ暗記>明智光秀の生存説

明智光秀・生存説


 明智光秀は、本能寺の変から11日後、山崎の合戦で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城に馬で逃げる途中に小栗栖(現京都市伏見区)の久遠山本経寺領内の竹藪が生い茂る細い街道で天正10年(1582年)6月13日(正確には14日の午前2時頃とされている)土民に竹槍で襲われ、その後、傷の深さに死を覚悟し自刃しております。

 しかし、その明智光秀が実は、小栗栖では死んでおらず、その後も生きていたという説がいくつも残されています。

 信憑性が高いものでは、妙心寺の日単簿にある記録で「明智日向守光秀法名明叟玄智、天正11年6月14日死。13回忌は文禄4年に当たる」と記されています。単純に1年間違えただけとも考えられますが、このお寺では13回忌をしっかり行っているので間違ったまま誰も気付かずに13回忌まで行われるというのは不思議ですので何か裏がありそうな気配はしますよね。

 ちなみに、この妙心寺の三英瑞省の弟子に南国梵珪という後に本徳寺の開祖となる僧がいるのですが、その人は光秀の息子とされています。有名な明智光秀の肖像画。あれが所蔵されているのが本徳寺です。

 あの肖像画には「雲道e禅定門肖像賛」と書かれています。また、位牌の戒名には「鳳岳院殿雲道e大禅定門」と書かれており、この赤字の部分に光秀の名前が隠されていると推測できるために肖像画が光秀のものだとされているんですね。

 当時の武将には珍しく髭もなく、胸元の紋章も明智の桔梗紋でもないんですけどね。光秀と悟られぬように描かれたものだとされています。

 そして、問題なのが肖像画に書かれた讃に「般舟三昧を放下し去る」と書かれているのです。この意味は阿弥陀を想ってやまない修行を投げ捨てて去った」ということなのですが、この人物が仏門を捨て、去っていったことを意味しています。

 つまり、肖像画が光秀なのであれば、光秀は仏門を去ったということになります。”去った”というのは亡くなったとも考えられますが、それにしても小栗栖で死んだはずの光秀が去っていったというのですからおかしいという訳ですね。

 

 
 そして、もう一つ光秀生存伝説で有名なのが天海=光秀説です。

 なぜ、天海が光秀だったといわれているのか?

 まず、天海という人物は自分の過去を一切語らなかったといいます。まぁ、本当は光秀だったというのであれば、それは語れない過去であることに間違いありませんね。

 また、天海は徳川家康の側近で政策などに深く関わった人物ですが、家康は天海に日光山光明院一帯の寺領を与えます。これが日光東照宮の生まれたきっかけとなるわけですが、東照宮の装飾に明智光秀の家紋、桔梗紋が見受けられるんですね。さらに奥日光から見える美しい景色の地を明智平と命名しています。



 そして、天海がいた比叡山にある松禅寺に光秀が寄進した石灯篭があるのですが、そこに慶長20年と刻まれています。慶長20年は1615年です。光秀が死んだのが1582年ですから、「あれ?死んでから寄進したの?」ってなってしまいますね。

 天海という名は法名で尊号はは南光坊、院名は智楽院、大師号を慈眼といいます。光秀の坐像と位牌がある慈眼寺と天海の大師号が同じ名前という一致もあります。

 ただし、これらを真実とするには証拠がまったくなく、あくまで伝説の域を出ることは今のところありません。
 

明智光秀の亡くなった年齢