明智光秀の年齢
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明智光秀については不明な点も多く生まれた年、また亡くなった年齢も定かではありません。
これまでは、明智光秀の亡くなった年齢は55歳というのが一般的でした。
『群書類従 明智系図』(1631年)に書かれた明智家の系図に光秀の亡くなった年齢が55歳と書かれている為です。
また、明智光秀を主人公とする軍記物である『明智軍記』(1688〜1704年)にも享年55歳と書かれておりますのでこれらが光秀の亡くなった年齢を55歳と広めたといわれています。
さらに光秀辞世の句といわれるものにも”五十五年夢”と書かれておりますので通説では享年55歳というのが一般的でした。織田信長が本能寺の変で亡くなったのが49歳(満48歳)ですから、信長よりも少し年上といったイメージでこれまでの映画やドラマなどでもそのようなイメージで描かれてきました。
本当の明智光秀は67歳だった!
しかし、実はこの光秀辞世の句も本人によるものかどうか怪しいといわれております。さらに『群書類従 明智系図』や『明智軍記』も光秀が亡くなってからだいぶ後に書かれたものであり、史料としての信ぴょう性も薄い・・・。
他の史料では、『織田信長譜』(1641年)光秀享年57歳、『当代記』(1645年)享年67歳、『陰徳記』(1660年)享年55歳、『増補信長記』(1662年)享年57歳、『将軍記』(1664年)享年57歳、『家忠日記増補追加』(1665年)享年55歳、『続本朝通鑑』(1670年)享年57歳、『和漢名数』(1678年)享年63歳、『黒田家譜』(1678年頃)享年57歳、『明智軍記』(1688年〜1704年)享年55歳などやはり55歳、あるいは57歳という記載が多いのですが、これらは『群書類従 明智系図』などの先の史料をもとに書かれていることも想定できるので元の史料の信ぴょう性が薄い以上、信頼性が持てないわけです。
では、どの史料を信じればいいのか?
もっとも信ぴょう性が高いとされているのが『当代記』と言われています。光秀の亡くなった年齢以外にも整合性がとれる記述が多いことから明智軍記などよりもかなり信ぴょう性が高い史料であると言われているのです。
当代記には「百姓等に被打殺、歳六十七」と書かれています。
また、光秀と同じ時代を生きた本阿弥は「光秀は老人といわれる」と書いていますし、徳川家の書いた記録でも「老人なり」と書かれています。単純に見た目が老けていた可能性もありますが、信長とさほど年齢が変わらないのに光秀だけ「老人」扱いというのもちょっと・・・。
というわけで、近年では光秀の亡くなった年齢は67歳であったという説が有力となっております。
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