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歴史年代ゴロ合わせ暗記>ひめゆりの塔事件

ひめゆりの塔事件

 
 昭和50年(1975年)7月。この年、当時の皇太子(現上皇)と皇太子妃(上皇后・美智子様)が沖縄海洋博開会式に際し、沖縄を訪れました。

 昭和50年というと沖縄が本土に返還されて3年が経った年です。

 戦後間もないころ、昭和天皇は全国各地を回る「戦後巡幸」を行っておりますが、唯一訪れることが出来なかったのが沖縄です。沖縄は太平洋戦争にて民間人も巻き添えになる地上戦が行われた場所。死者も18万人以上、犠牲者の中には女性や子供も多かったので当時の沖縄県民の感情としては皇室に対して複雑なものがあったのでしょう。戦後まもなくの沖縄ではそういった不穏な空気があり、皇室として、これが戦後初めての沖縄訪問となりました。皇太子は、沖縄訪問の中、糸満市の「ひめゆりの塔」を訪れ献花することも決まっていました。

 当時は、左翼過激派なども活発に行動していた時期。沖縄解放同盟準備会は「皇太子の沖縄上陸を阻止する」と宣言します。当然、警察は警備体制を強化。沖縄県警本部は3700人の警察官を準備し、本土からも2400人の警備人員を派遣します(当初は本土からの応援は5000人規模を予定していたが警察に対する沖縄県民の反感が強く過剰警備批判を避けるため削減)。

 沖縄解放同盟ら過激派も本土から2000人規模の過激派の応援を送る。また、火炎瓶攻撃を行うといった挑発行為を行います。

 7月17日午後1時5分すぎ。献花の為に「ひめゆりの塔」の前に進まれた皇太子。その足元に火炎瓶が投げつけられます。

 警備は万全だったはず。しかし、実は、その警備には落とし穴がありました。

 ひめゆりの塔の前には岩穴があります。深い壕となっているため、人が潜むには最適な場所です。当然、警察もそこは調べるはず。しかし、当時の沖縄県知事や沖縄県警本部担当者らも「ひめゆりの塔の聖域を汚すべきではない」との考えであったため、また県民感情を逆なでしないためにも、その場所の安全確認をしていなかったんです。

 火炎瓶を投げつけた犯人は、その壕に身を隠していました。壕の中には焚火の後や缶詰の空き缶などが残されていたため2〜3日前から、その場所に身を隠していたのです。

 実行犯は、沖縄解放同盟と共産主義者同盟の過激分子2名。しかし、不幸中の幸いで投げつけらえた火炎瓶は皇太子、皇太子妃からはそれ、炎は数メートル離れた場所で燃え上がりました。

 皇太子殿下は、この事件により、沖縄戦による県民傷跡を深くかえり平和への願いを未来につなぐという異例の談話をその日の夜に発表されました。