歴史年代ゴロ合わせ暗記ベルリンの壁崩壊

ベルリンの壁崩壊


 1989年11月9日。ドイツの首都であるベルリンを2つに区切っていた「ベルリンの壁」が崩壊されました。この崩壊のおよそ1年後の1990年10月3日に東西ドイツは統一されることになります。

 しかしながら、現在でも西側と比べて東側では、経済的な格差があるといった問題が残されております。

 今回は、このベルリンの壁の崩壊について学んでいってみましょう。

 
ドイツの分割

 ベルリンの壁がつくられた原因は、第二次世界大戦にあります。ドイツは、大戦に敗戦し、4国分割占領の状態となっていました。

 東ドイツにあたる地域がソ連(現ロシア)の占領下となり、西部ドイツがイギリス、フランス、アメリカの占領下となります。東側がソ連の占領下です。ソ連に近い東側がソ連。イギリスやフランスに違い西側がイギリス、フランス、アメリカの占領下です。

 さて、ここからが少しややこしいんです。かつてのドイツの都のベルリンは東ドイツ側にあります。しかし、このベルリンだけは、これまた4ヵ国によって分割占領されていたのです。

 これは、1945年のポツダム協定によって決められたことなんですが、西ベルリンにしてみたら東ドイツの中に完全に孤立した状態になってしまっているわけです。




 ですが、当初はベルリン市の中は自由に行き来できていたんです。

 しかし、状況は変わっていきます。1948年には西ドイツでアメリカが中心となり通貨改革というのを行います。それまではライヒスマルクという通貨を使っていたんですが、アメリカはドイツマルクという新しい通貨を発行したんです。

 まぁ、戦時中にライヒスマルクは価値が下落してしまっていたので経済の復興のためには新しい通貨が必要と考えたわけですが、ポツダム宣言では「ドイツを経済的に一体とみなす」としていたため西ベルリンにだけ、勝手に新通貨を流通させたアメリカをソ連は激しく非難。スターリンは「アメリカは通貨改革によって西ドイツだけでなく、東ドイツをも影響下に置こうとしている」と判断するんです。

 これによって行われたのがベルリン封鎖。東西ドイツの境界線に戦車を派遣し、陸での交通を遮断。さらには、東ドイツから西ベルリンへの電力やガスといったものの供給をストップします。

 西ドイツ地域の人はまだいいですが、西ベルリンの人はたまったもんではありませんね。生活できません。

 そこでアメリカはどうしたか。

 当然、物資を西ベルリンに運びます。しかし、西ベルリンの人口は200万人もいます。この人たちが生活できる分の物資というととんでもない量です。

 アメリカはダグラスC54スカイマスターという輸送機を1300機集めて、ベルリンへの空輸を行います。何しろ陸がソ連によって封鎖されていますから空から運ぶしかないんです。1300機もの輸送機が24時間動き続けるわけですが、西ベルリンのテンペルホープ空港には62秒に1機の割合で輸送機がおり物資を置いていくといった具合です。

 では、なぜソ連はアメリカの輸送機を攻撃することはしなかったのか?

 アメリカは、ソ連を刺激しないためにわざわざ陸での輸送を避け、物資を運ぶためだけに輸送機を飛ばしています。その輸送機をソ連が撃墜でもしたら、さすがにアメリカも黙っていません。第二次世界大戦では、アメリカの本土は、ほぼ無傷。しかも、ソ連は当時原爆を持っていませんでしたがアメリカは原爆も持っている。さすがのスターリンもアメリカとの本気の戦争は避けたかったわけです。

 アメリカは空での物資の輸送を13カ月続けます。結局、ソ連は、1949年5月に封鎖を解除。封鎖していても実効のないものになってしまっていましたからね。

 そして、その数か月後にはドイツに2つの国家が成立します。

 1949年9月に西ドイツにて
ドイツ連合共和国が建国。初代首相はアデナウアー。首都は暫定的にボンという地域に。対抗する形で東ドイツにもドイツ民主共和国ができます。こちらの初代首相はグローテヴォール。

 
ベルリンの壁の建設

 さて、長々と書いてきましたが、この状態でもまだベルリンの壁は作られていません。つくられたのは1961年の8月です。

 ちなみにベルリンの壁はベルリンという都市の中にできた壁です。東ドイツと西ドイツの境界線ではなく、東ドイツと西ベルリンの境界線。西ベルリンを囲うようにできた壁です。

 当時、東ドイツから西ベルリンを経て西ドイツに亡命する人が沢山いたんです。その数は150万人にも達します。この人口流出に苦慮した東ドイツ政府は、それまで自由に行き来できていた西ベルリンに壁を建設します。当初は、有刺鉄線やブロックの積み上げであった壁も次第に立派になっていき、高さ3メートル超のコンクリート製になっていきます。

 これで西ベルリンは全長150キロメートル以上にわたって壁に取り囲まれた状態となりました。

 壁の付近では兵士が監視塔から見張り、地雷が埋め込まれます。それでも西ベルリンへの脱出を試みる人は多く、成功した人もいる一方で射殺された人は少なくとも140人以上はいるといわれています。

 ベルリンの壁崩壊

 さて、時は経ち1989年。東ドイツの人々はハンガリーなどの近くの国を通して西ドイツに逃げていく人たちが増えていきます。東ドイツに残った人たちも民主的な政治を訴えて街頭でデモをする人たちが増えて、東ドイツも抑え込めなくなっていきました。

 

 そして、1989年11月9日、東ドイツの政府幹部が記者会見で「条件なしで東から西への出国を許可する」といった趣旨の発表をしました。これを聞いたベルリン市民が国境の検問所に殺到。検問所は開かれベルリンの壁は崩壊されます。

 翌1990年10月3日に東西ドイツは統一されることになりました。

 しかしながら、現在でも旧東ドイツと旧西ドイツ地域では経済的な格差もあり問題となっております。

ドイツの東西の経済比較 
ドイツ西部  ドイツ東部   
失業率(2019年9月) 4.6% 6.1%
月当たりの世帯総収入
(2017年)
4687ユーロ 3661ユーロ 
人口(2018年) 6682万人  1620万人