新井白石 正徳の治
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新井白石(あらい はくせき)とは、儒学者であり政治家。あの「お犬様・・・」で有名な徳川綱吉の亡き後、正徳の治(しょうとくのち)とよばれる政治改革を行いました。
では、この新井白石の行った正徳の治について少し学んでみましょう。
徳川綱吉が亡くなった後、6代将軍となったのは家宣(いえのぶ)でした。三代将軍家光(いえみつ)の孫で綱吉の甥ですよ。
家宣が将軍になったのは48歳の時。その家宣が登用したのが儒学の師でもあった新井白石や側用人(そばようにん)間部詮房(まなべ あきふさ)でした。
彼らが行った政治が正徳の治です。では、どんな政治を行ったのでしょうか?
@生類憐みの令の廃止
まずは、綱吉が死ぬ前に「あれだけは、残してくれ」と頼んでいた生類憐みの令を廃止!ちなみに綱吉の死後、わずか1週間で早々に廃止しちゃってるよ。
A正徳の貨幣改鋳
それから貨幣改鋳(かへいかいちゅう)。綱吉の時代に荻原重秀(おぎわら しげひで)という人がお金を作るのに使う金や銀の量を減らしていたんだ。小判に使われている金や銀の純度を落とすってこと。当時は、金銀の産出量や流通量も減ってしまっていたからね。
しかし、新井白石は、当時の物価の上昇は、この荻原重秀が行った貨幣改鋳が原因であるとして、白石は貨幣価値を慶長の時代に戻す政策を行いました。これを正徳の貨幣改鋳といいます。
これによってインフレ状態からは脱却するも逆に深刻なデフレを招く結果となってしまいました。
B年貢の増加
綱吉の時代に廃止されていた勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)と呼ばれる会計監査役を復活させ代官の不正を調べさせたり、幕府の役人を幕府の直下地に派遣して見張らせることで年貢を43万俵あまり増加させました。
C正徳新令(しょうとくしんれい)
1715年に正徳新令(海舶互市新例)を出し、貿易額の制限を行います。
当時の貿易といえば、長崎ですね。この頃は、輸入ばかりで新井白石によれば日本の保有する金の4分の1、銀では4分の3もが海外に流出してしまっていたんです。ですから、これに歯止めをかけるために白石が貿易額の制限を行いました。
D朝鮮通信使の接待儀礼の見直し
これは、朝鮮からの通信使接待に掛る費用と将軍の呼び名の変更を行いました。
秀吉の時代に朝鮮に攻め入ったわけですが、その後、家康によって対馬の宗氏を通じて国交回復を目指したんですね。その時、通信使という人が送られてきたんですが、その後も将軍が代わると通信使が来日することになっていたんです。しかし、めちゃくちゃお金が掛るんですね。通信使っていっても1人じゃないですよ。大体お供の人もいれると1000人くらい。その人たちが対馬から江戸まで来るんですからね。大変です。
ですが、白石は、これをなるべく抑えようと接待の簡素化を行いました。おおよそ100万両掛る費用を60万両くらいに抑えます。
また、それまで国書の中で日本の将軍のことを「日本国大君」としていたのを「日本国王」に改めることにしました。「大君」とは、朝鮮では王子の嫡子の意味だったので朝鮮国王と将軍が対等となるように改めたんですね。
E閑院宮家の創設
皇室には直系の血統が途絶えたときのために宮家というものがあったんですが、当時の宮家は3つ。伏見宮(ふしのみや)、有栖川宮(ありすがわのみや)、京極宮(きょうごくのみや)の三家です。しかし、この3つでも将来血統が途絶えないともいえないということで閑院宮(かんいんのみや)という宮家の創設を提案しました。
ちなみに、明治天皇以降の天皇は閑院宮家の血を引いています。う〜ん。白石が新しい宮家の創設を提案していなかったらどうなっていたことか・・・。
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