歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記慰安婦問題>吉田清治

慰安婦問題 吉田清治


 従軍慰安婦問題。この問題が世に知られるようになったのは、1982年のことです。戦後、40年近く経ってからのことなんですね。

 1982年9月20日。朝日新聞は大阪本社版朝刊社会面にて吉田清治が行った大阪市内での講演内容として「済州島で200人ほどの若い朝鮮人女性を狩り出した」というショッキングな内容の記事を報じました。

 それ以降も朝日新聞は吉田清治の証言を16回記事にします。

 しか〜し!この吉田清治の証言・・・。実は真っ赤なウソ・・・。

 朝日新聞も30年以上たってからですが、この吉田清治の証言はデマであったとして訂正記事を掲載しました。

 まぁ、この辺りまでは知っている人は多いですよね。ですが、ちょっと衝撃的なのがこの吉田清治という人物・・・。



 本名は、吉田雄兎。吉田は執筆活動もしていたので清治という名はペンネームなんですね。新聞では1913年10月15日の生まれだと書かれています。出身地は本人の著書の中では山口県ということになっていますが、実際には福岡県芦屋町が出身ではないかともいわれています。・・・とにかく謎が多いんですね。

 また、本人は法政大学の出身といっていますが、吉田が在籍した記録は見つかっていません。

 そして、最大の謎が吉田が23歳の時に19歳の朝鮮人男性を養子にしているんです。50歳とか60歳とかになって自分には子供ができないだろうということで養子をむかえるというのはよくある話ですよね。しかし、23歳で養子をむかえるって???

 さらにいえば、吉田は著書の中でこの養子は養子縁組した翌年に戦死したといっていますが、調査によると1942年にこの男性は結婚しており、九州で労組運動の幹部として活動し1983年まで生きていたということが明らかになっています。

 また、ちょっと怖いのが吉田が卒業した門司市立商業学校の卒業者名簿には「吉田雄兎 死亡」と記されているんです。

 もう、何が何だかわからない・・・。怪しすぎなんですね。

 いろいろな憶測が彼について語られていますが、おそらくは、彼は朝鮮人であったのではなかったのか?というのがもっとも信ぴょう性が高いようです。

 吉田雄兎という人物が門司市立商業学校時代に亡くなっており、その名前や戸籍を使い生活していたというのです。当時は、朝鮮人というと差別の対象となっていましたから日本人の名前や戸籍を使いすり替わるというのはない話ではなかったようです。

 そして、23歳の時に19歳の弟を養子としてむかえ入れたといえば、若くして19歳の朝鮮人の養子をとったのも辻褄があいます。

 2016年には吉田の長男が雑誌のインタビューに答えています。その中では「父が犯した慰安婦強制連行のねつ造について大変申し訳なかったとおもっております。できることなら慰安婦像をクレーン車で撤去したい。」と語っています。

 まぁ、新聞や雑誌、テレビなどの偏った情報を鵜?みにするのは危険ですってことですね。朝日新聞という超一流の新聞社であっても誤った情報を掲載してしまったわけですからネットの情報や雑誌の情報などひとつの情報源に頼るのではなく、複数のメディア、できれば海外のメディアなどの情報にも目を通すことが大切なんでしょうね。

 また、新聞の社説なども数社読み比べてみると主張する内容が全く別で興味深かったりしますよ。