邪馬台国の場所
|
邪馬台国の場所については古くから論争が繰り広げられ未だ決着がついておりません。邪馬台国は畿内にあったという畿内説。また九州にあったという九州説。いったい、どちらの方が可能性が高いのでしょう。
そもそも、なぜ邪馬台国の場所がよくわかっていないのか?
その理由は、『魏志』倭人伝の記述が間違っているんですね。そこに書かれている邪馬台国への旅程(道筋を示したもの)が非常に曖昧で、本当にそのナビゲーションに沿って進んでいくと九州から更に南に下った大海原に出てしまう・・・。
さて、では、その魏志倭人伝には、邪馬台国のことをどのように書かれていたのか?
3世紀に書かれた『魏志』倭人伝。その書物の名前は日本では有名ですが、実は、そんな本は存在しません。実際には、あの『三国志』の事なんですね。三国志は魏、呉、蜀の三国が争った時代の歴史書ですけど、「魏志」「呉志」「蜀志」と分かれています。その「魏志」の中の数ページに邪馬台国の事が記されていたんですね。それを『魏志』倭人伝と呼んでいます。
それによると邪馬台国には卑弥呼という女王がいたと書かれています。その邪馬台国の卑弥呼は魏の国から親魏倭王(しんぎわおう)という称号を受け取り、金印を預けられているといいます。また、卑弥呼は鬼道といって、おまじないのようなものを使っており、卑弥呼が亡くなった時には百人あまりの奴隷が生き埋めにされたといいます。卑弥呼の死後は男の王を立てましたが内乱となり、その後、13歳の壱与(いよ。”よと”と言う説もあり)という女王を立てたところ再び国はまとまったといいます。
確かに邪馬台国は存在していたんですね。しかし、場所は?
邪馬台国・九州説
「魏志倭人伝」には倭人は兵器として鉄の鏃(やじり)を使っているという記述や銅鏡100枚を与えたという記述があります。
鉄の鏃は、畿内よりも九州の方が圧倒的に多く出土しています。福岡県からは奈良県のおよそ100倍もの鏃が出土しています(福岡398個、奈良4個)。また、鏡(卑弥呼がもらった可能性が高い魏晋鏡)に関しても福岡37個、奈良2個となっています。
他にも魏志倭人伝に記載されている絹は福岡15地点、奈良2地点。鉄製の剣、矛、刀、戈は、福岡102個、奈良1個。
つまり、魏志倭人伝に記載のある事物の出土数が圧倒的に畿内よりも九州の方が多いのです。
弥生時代頃の鉄鏃の出土数 |
福岡 |
398 |
兵庫 |
92 |
佐賀 |
58 |
大阪 |
40 |
大分 |
241 |
京都 |
112 |
長崎 |
29 |
奈良 |
4 |
宮崎 |
100 |
滋賀 |
13 |
熊本 |
339 |
和歌山 |
5 |
鹿児島 |
3 |
三重県 |
3 |
魏晋鏡の出土数
(卑弥呼がもらった可能性が高いと思われるもの) |
福岡 |
37 |
兵庫 |
10 |
佐賀 |
9 |
大阪 |
12 |
大分 |
2 |
京都 |
15 |
長崎 |
3 |
奈良 |
2 |
宮崎 |
3 |
滋賀 |
2 |
熊本 |
0 |
和歌山 |
1 |
鹿児島 |
1 |
三重 |
3 |
邪馬台国・畿内説
では、邪馬台国があったのは九州が有力なのか?いやいや、畿内説には纏向遺跡(まきむくいせき)があります。
現在の奈良県にある弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡なのですが、ここは前方後円墳発祥の地ともいわれています。ここはヤマト王権発祥の地ともいわれているので卑弥呼の邪馬台国が畿内にあったとするならば、後の日本にもつながるヤマト王権と卑弥呼を繋げることが出来るんですね。
また、儀式に使ったと思われる蛙の骨やモモの種(祭祀で使われたと思われるもの)が2800個ほど見つかっております。年代も卑弥呼の時代に近いと思われるのです。
宮殿ともみられる巨大な建物のが整然と並んで立っていたこともわかっております。
江戸時代に活躍した新井白石や本居宣長らも邪馬台国論争を繰り広げていたといいますが、まだまだ決着はつきそうにありません。
|
|
|