山本勘助は実在したの?
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山本勘助といえば武田信玄の軍師として知られる人物ですが、その実像は謎だらけです。
実際、山本勘助は昭和に入るまでは架空の人物では?と考えられていました。そもそも、山本勘助は武田家の軍法などを記した「甲陽軍鑑」で重要な役目を果たしていますが、この史料の信憑性が疑わしいと考えられており、また山本勘助の名が武田信玄の家臣の中にない。
山本勘助は、「作り上げられた理想の軍師」といった見解が昭和に入るまで続いていました。
ところが、昭和44年、武田信玄が市河藤若に宛てた書状が見つかり、その中に「山本菅助」という名が出てきたのです。名前の漢字がちょっと違うのですが、当時は漢字表記が現在ほど重視されていなかったので、それほど不自然でない。
これにより、山本勘助は実在した!と決定づけられます。
容貌は色黒であり、戦場で手足が不自由になったという山本勘助。その最後は、1561年の川中島の合戦だったといわれますが、生まれに関しては1493年、1506年などの説があります。
また、山本勘助は軍師として伝えられていますが、山本勘助が軍師だったとは「甲陽軍鑑」にも書かれていない。ただ、”軍配鍛錬の者”とあり、川中島の合戦では「啄木鳥の戦法」を進言したことから軍師だったのだろうと憶測できるというだけ。
歌舞伎などで山本勘助を軍師として演じているので、すっかり軍師として定着してしまっていますが、実際に軍師という立場にあったのか?そこは、諸説分かれる所です。
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