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蘇我馬子

 
蘇我馬子とは、蘇我稲目の息子として生まれ、父の代から続く物部氏との因縁に決着をつけ聖徳太子や推古天皇と共に仏教をもとに国づくりを始めた人物です。息子には蘇我蝦夷、そして孫には蘇我入鹿がおります。

さて、この蘇我氏ですが、もとは武内宿禰(たけうちのすくね)を始祖とする豪族の1つとされています。彼らは渡来人とかかわりが深いと云われ、当時の日本ではいちはやく仏教に触れる機会を得たようです。その一族の出身である蘇我馬子は大陸で流行している仏教を日本にも根付かせることに力を注ぎました。当時、憧れの存在であった中国大陸で流行っている宗教を日本に取り入れることが日本の発展にもつながると信じていたわけです。



しかし、日本には古来より祀ってきた数々の神様がおります。これらの神々をないがしろにして外国の宗教を取り入れるなどもってのほかであると考えたのが物部氏でした。蘇我氏と物部氏は馬子の親の代から始まっており、馬子の代になっても引き継がれていくことになります。

585年に蘇我馬子が病気にかかった際、占い師は「父の代で仏像を破壊されたことがあるのではないですか?それが原因でしょう」と言われます。やったのは、自分でなく物部氏です。物部氏が破壊した仏像のせいで自分が病気になった!馬子は当時の天皇である敏達天皇に相談すると仏法を祀ってもいいと許可が出ました。しかし、これに物部守屋は「そんなことをするから神々がお怒りになったではないか!」と当時流行していた疫病を仏像のせいにして敏達天皇に仏法を祀る許可を撤回させてしまいます。さらには、寺を焼いたり、仏像を海に捨てたり・・・。最終的には蘇我馬子自身の為だけになら仏法を祀っても良いという許可を得ますが、馬子は納得できません!

敏達天皇が亡くなった際も蘇我馬子と物部守屋は激突します。小柄な馬子が大きな刀を差している姿を見た守屋は「雀が矢で射抜かれたみたいになっちゃてるね」と大笑い。対する馬子は守屋が緊張で震えながらお悔やみの言葉を述べている姿を見て「鈴でもつけておけばよかったのに」と馬鹿笑い・・・。こんな子供じみた喧嘩ですが、随分と大っぴらにやったようでちゃんと記録にも残っています。

そんな二人ですが、587年遂に軍事衝突します。物部守屋が推していた次期天皇候補である穴穂部皇子が後に推古天皇となる額田部皇女に対して無理やりエッチなことをしようとしたのです。異母兄弟なんですけどね。穴穂部皇子と額田部皇女は・・・。敏達天皇の妻であった額田部皇女と関係を持ってしまえば次期天皇の座は間違いないと考えたようですが、蘇我馬子はこれを好機とみます。蘇我馬子は、額田部皇女の弟である泊瀬部皇子を推して穴穂部皇子を討ってしまうのです。当時、朝廷で軍事を担当していた物部氏は怒り心頭。蘇我に対して軍を向けます。馬子の軍は、何度も窮地に陥りますが、そのときに戦闘に参加していた聖徳太子が四天王の像を彫り「勝たせてくれるのであれば寺を建てて祀りましょうぞ」と願をかけたところ一気に逆転!この対決によって物部氏は滅び、一気に日本に仏教が広がっていくこととなります。

その後、泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位しますが、崇峻天皇と蘇我馬子との仲は徐々に悪くなっていき、結果、蘇我馬子によって崇峻天皇は暗殺。その後、蘇我馬子は推古天皇を日本初の女性天皇として推し、朝廷での権力を確保することに努めました。しかし、推古天皇はそんなのお見通し!推古天皇は甥っ子の聖徳太子を近くに置き、馬子の力を少しでも抑えるために推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子と3人で政治を行っていくこととなりました。

蘇我馬子 略年表 
572年 21歳?  大臣につく。朝廷への貢物を保管する大蔵を管理して朝廷の財政を任される 
585年  34歳?  敏達天皇がなくなる。 
587年  36歳?  推古天皇の命令により穴穂部皇子を殺害。その後、物部守屋を滅ぼす。 
588年 37歳?  法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。完成は596年。 
592年  41歳?  崇峻天皇を暗殺する。 
620年 69歳?  『天皇紀』『国記』といわれる歴史書をを聖徳太子と共に編纂する。 
626年 75歳?  死去。