歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記中国の歴史中華民国の成立

   

中華民国の成立

 
 度重なる敗戦や革命の失敗の結果、清朝打倒の声が中国国内では強まっていきます。清は、もともと女真族が建てた国ですね。だから、あの頃の中国は、女真族特有のラーメンマンみたいな髪型をみんなしていたわけなのでしが、「やっぱり女真族じゃダメだ!漢民族じゃなきゃ!」というような声が清朝の衰退と共にあがってくるわけです。

 そんな中、1894年にハワイで興中会(こうちゅうかい)という革命結社が誕生します。中心人物は、ご存知、あの
孫文(そんぶん)です。1905年には東京で志を同じくする革命結社と手を組んで、組織的な活動を展開していくことになります。えっ?なんで東京に志を同じくする革命結社があったのかって?

 当時、中国の人の中には、清の教育を嫌って子弟や優秀な人物を海外留学させる人がいたんですが、そんな留学生が最も多く派遣されたのが実は日本だったんです。日清戦争で争ったりしていましたけど、ちょんまげ時代から近代化を進め、欧米列国と渡りあうまでに成長していた日本から学ぶことは多いと考えていたのですね。

 欧米や日本で近代化政治思想を学んだ若者達は、清朝打倒、近代化推進の革命運動を起し始めるのです。初めはバラバラに動いていた彼らですが、それをまとめ上げたのが孫文です。1905年には日本人の宮崎天(みやざき とうてん)という人物の強力を得て中国同盟会というのが結成され組織的な活動へと変わっていったというわけです。



 1911年には
辛亥革命(しんがいかくめい)というのが起こります。きっかけは、清朝が財政危機を乗り越えるために鉄道の国有化を宣言したのですが、それに怒った人々が暴動を起したのです。

 もう少し詳しくいうと、清の政府は、イギリスやアメリカ、ドイツ、フランスから資金の融資を受けるために担保として使おうと民営鉄道を国有化してしまおうとしたのです。これに資本家や有力者たちが怒り暴動に発展したのです。

 これを契機に革命派が主流だった湖北省武昌の軍が蜂起。そして、その暴動はやがて全国に飛び火していきます。結果、短期間で14もの省が清から独立を宣言することとなり、1912年1月には孫文が臨時大統領となり
中華民国が成立することとなるのでした。

 こんなことを清も黙ってみている訳にはいきません。
袁世凱(えんせいがい)という軍人勢力の実力者を立てて、革命政府に対抗します。しか〜し、この袁世凱がなんと自分を中華民国の臨時大統領にするという条件で清を裏切ってしまう!!!

 これにより、清朝では皇帝
溥儀(ふぎ)が退位することなり、その長い歴史に幕を閉じることになるのでした。



 ところで約束どおりに臨時大統領となった袁世凱。

 孫文らは、袁世凱の動きを警戒し、1912年に臨時約法という憲法的な側面をもつ法律を成立させますが、これを袁世凱はまったく無視!それならばと、革命派は国民党を結党し、総選挙で圧勝しますが、袁世凱は、この国民党をも弾圧。国民党は、ついに1913年に武装蜂起しますが、軍事勢力の実力者であった袁世凱にかなうわけもなく鎮圧され、袁世凱は正式に大統領へと就任することになります。

 孫文らは、日本に亡命する羽目になりますが、東京にて今度は中華革命党を結成。そんな中、袁世凱は1915年12月に中華帝国を建国し、皇帝にまでなってしまうのです。

 う〜ん、さすがにこれはやりすぎですね。この皇帝宣言は、国内どころか海外からも批判が出てきて、中国全土で袁世凱に反感の声が上がります。1916年3月に、袁世凱はあっという間に皇帝を退位。これには、さすがに袁世凱もストレスが溜まりすぎたのか?3ヵ月後には病気で亡くなってしまいます。

 その後の中国では、軍閥が乱立し、事実上の分裂状態におちいっていくことになり、いよいよ欧米列国の食い物にされていくことになるのですが、それはまた後でのお話・・・。

 なお、辛亥革命が契機となり、それまで中国の支配下にあった周辺地域が独立を模索していくことにもなりました。1911年には外モンゴルが独立を宣言。1913年にはチベットも独立を宣言します。(チベットは後に再び中華民国の支配下に置かれてしまいますが・・・)


清の時代

中華人民共和国の成立