歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦い


 鳥羽伏見の戦いとは、大政奉還によって政権を天皇に返上した徳川慶喜が領地や官位まで返還を求められた為、旧幕府側が怒り鳥羽伏見にて兵を上げた出来事です。

 では、この鳥羽伏見の戦いについて少し詳しく見ていきましょう。

 大政奉還によって、政権は天皇に返上されたものの、いまだ幕府の力は絶大でありました。だって、この時点では、幕府は戦ってボロボロになったわけではなく、そうなる前に政権を返してしまったわけですからね。徳川家は日本一の地主で財産もまだまだあります。

 これじゃ、せっかく倒幕したのに意味がない・・・。

 そこで薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らは徳川慶喜の辞官納地(内大臣の辞職と領地の返納)を決定し、新政府から旧幕府の勢力を徹底的に排除する方針をとります。

 これらの決定に慶喜は従い、京都から大阪城に引き上げるのですが、腹の虫が治まらないのが旧幕臣や会津藩、桑名藩の人々。

 さらに、西郷隆盛は薩摩藩の藩士ら命じては、1867年10月ごろから江戸で放火や強盗を行うなどして旧幕府勢を挑発します。その挑発にのってしまった江戸警備にあたっていた庄内藩士らが12月25日に薩摩藩邸を焼き討ちにする事件を起すのですが、これをきっかけとして、ついに大阪城にいた旧幕府勢も京都に向かって兵を上げるのでした。1868年1月3日の出来事です。



 さて、この戦い。実は、薩摩藩と旧幕府側の勝手な私闘。つまり、本来、朝廷には関係がないんですね。しかし、岩倉具視が官軍の証である「錦の御旗」を制作するよう薩摩の大久保利通や長州の品川弥二郎に指示。

 幕府軍15000に対して、薩摩藩、長州藩ら新政府の軍は5000ほどで、当初は一進一退の攻防が繰り広げられていましたが、1月5日に錦の御旗が新政府軍に翻ると戦況は一気に新政府軍優勢に転じます。

 旧幕府軍としては、天皇の象徴に向かって弓を引くなんてできませんからね。指揮は下がるばかり・・・。また、どちらにつくか態度を曖昧にしていた諸藩も天皇の敵になることを恐れて新政府支持を次々に表明。天皇への忠誠を示すために新政府側に寝返る藩も続出となります。

 「こりゃダメだ」

 ってことで、慶喜は突如、大阪から江戸に戻ってしまい幕府軍は自滅するように大敗してしまうのでした。