歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記高杉晋作
   

高杉晋作

 

 高杉晋作といえば、長州藩を倒幕へと導き、維新の道を切り開いた熱きリーダーですね。

 では、高杉晋作について少し詳しく学んできましょう。

 1839(天保10)年、長州藩士の長男として高杉晋作は生まれました。家は、上流武士の家柄。ですから、文武両道の気風を重んじて柳生新陰流の免許皆伝と武術は一流。また、藩校の明倫館で学ぶなどもしています。

 しかし、この明倫館の授業に物足りなさを感じたのか?19歳の時に久坂玄瑞の誘いで松下村塾に入門しました。松下村塾というのは、武士や町民など身分を問わず塾生を受け入れ、その塾生たちが後に倒幕、維新、明治政府で活躍していくことになる塾ですね。伊藤博文、高杉晋作、久坂玄瑞、山縣有朋なんかが松下村塾の出で有名です。

 その中でも、高杉晋作は久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿と共に松下村塾の四天王と呼ばれるほど優秀な人物となっていきます。

 この高杉晋作は1862年に藩命で上海を視察することになりますが、当時の清は、アヘン戦争に敗れ、欧米列国に半植民地化されている状態。これを目に焼き付けた晋作は、開国してしまった日本に危機感を強め、帰国後すぐ、イギリス公民館の焼き討ちという攘夷(外国人を追い出す)行動に出るのでした。

 1863年には関門海峡にて外国船を砲撃。ですが、これは当然、外国船からも反撃を受けますよね。そこで長州藩主から命じられて藩内防御のために高杉晋作に設立させたのが奇兵隊です。この奇兵隊は身分を問わず武士、農民、町人や僧侶も加わります。

 この外国船砲撃の報復として1864年8月にはイギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合隊による下関砲撃を受けますが、晋作はこの講和の任にもあたり敗戦処理を任されることになります。

 その後、禁門の変によって朝敵となった長州藩。藩の中では、幕府にしたがった方がいいのでは?という案が多くなってきますが、晋作は、これを許さぬ!と挙兵。そして、彼らを撃破すると藩内を倒幕路線にまとめ、桂小五郎を京都に送り薩長同盟を結ばせます。

 1866年。幕府は第二次長州征伐として15万の兵を長州征伐に向かわせることになるのですが、薩長同盟により最新の武器などを手に入れていた長州側は見事勝利!

 ですが、その翌年、高杉晋作は肺結核が悪化し、この世を去ることになるのでした。