推古天皇はなぜ初めての女帝となったのか?
|
推古天皇は、日本で初めての女性の天皇です。欽明天皇の娘として生まれて異母兄である敏達天皇に嫁ぎました。夫が亡くなった後、色々あって皇位を継承するわけですがどのような理由で女性初の天皇となったのでしょうか。
推古天皇(額田部皇女)には、4人の男兄弟がいました。父、欽明天皇が崩御すると、長兄の敏達天皇が即位し、その敏達天皇と後の推古天皇となる額田部皇女は18歳の時に結婚します。異母兄である敏達天皇との結婚ですが当時は珍しくありませんでした。
その後、敏達天皇も崩御。次に皇位を継いだのは用明天皇ですが、生年月日が不明なため額田部皇女の兄か弟か不明です。
ここで重大な事件が起こります。敏達天皇の弟、つまり額田部皇女の兄弟にあたる人物である穴穂部皇子が額田部皇女に対して無理やりエッチなことをしようとするのです。これは、用明天皇が病弱であったため、額田部皇女と関係を持ってしまえば次の天皇は自分になると考えたのでしょう。
しかし、この事件を逆手にとって蘇我馬子という当時の実力者が穴穂部皇子を討って額田部皇女の弟である泊瀬部皇子を次の天皇に推すのでした。実は、穴穂部皇子のバックには蘇我馬子と対立していた物部守屋がついていたんですね。守屋を排除するにはいい口実だったわけです。
その後、用明天皇が病気により崩御。泊瀬皇子は崇峻天皇として即位します。
しかし、崇峻天皇はすぐに暗殺されてしまいました。犯人は蘇我馬子。崇峻天皇のバックについていたはずの馬子でしたが、その実、二人はうまくいっていなかったようです。これで欽明天皇の4人の息子は全員亡くなってしまったわけです。
そこで、蘇我馬子は自分の甥っ子にもあたる額田部皇女を推古天皇として初の女性天皇に即位させたわけです。朝廷での権力を維持するために推古天皇なら自分の思うがままに操れると考えたのかも知れません。
しかし、推古天皇はすぐに自分の甥っ子である聖徳太子を側近として置き、その後は聖徳太子と馬子の3人での政治を行いました。蘇我馬子とうまく距離感を保ちながら政治を行うとはなし崩し的に即位したとはいえ、かなりの切れ者であったといえますね。
|
|
|