孫ピンの兵法
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(中国戦国時代:紀元前5〜3世紀) |
「山東省で発見された竹であんだ書物の全訳を記した書物」 |
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孫ピンの兵法とは、紀元前4世紀ごろに孫(そんぴん)という兵法家によって書かれたとされている兵法書です。似ている名前で有名な書物「孫子兵法」というのもありますね。実は、少し前までは、この孫子兵法は紀元前5世紀ごろの兵法家である孫武が書いたものなのか?それともその孫武の子孫にあたるといわれている孫ピンが書いたものなのか?長い間議論がされてきました。
ところが、1972年に山東省の山で2000年以上も昔の墓が見つかります。その中に竹をあんでつくった書物がたくさん出てきます。そして、その書物の中から「孫子の兵法」と「孫ピンの兵法」が見つかったのです。そのため「孫ピンの兵法」は当然、孫ピンが書いたもの。そして、「孫子の兵法」の方は孫武が書いたんでしょうということがはっきりしました。まぁ、世間では孫子の兵法の方が圧倒的に有名ですが、この孫ピンという人もすんごい人!
では、この孫ピンという人物について少し学んでみましょう。
孫ピンが生きた時代は中国戦国時代。後に秦によって中華は統一されるのですが、それ以前の乱世の時代の人物です。孫ピンには、若い頃いっしょに兵法を学んだ涓(ほうけん)という仲間がいました。しかし、実力は孫ピンの方が上だったため涓は彼のことを疎ましく思っていたようです。
やがて、涓は魏という国の軍師として召かかえられることになります。すると涓は使者を送って孫ピンに一緒に魏に仕えないか?と誘いを入れるのです。しか〜し!これは涓の仕組んだ罠でした。孫ピンが喜んで魏に向かうと涓は司法官に嘘の告げ口をして孫ピンに無実の罪をきせます。
そして孫ピンは両足を切断されるという重い刑にかけられることになるのでした。もちろん、当時は麻酔もなしですからねぇ。痛いでしょうねぇ。涓を恨んだでしょうねぇ。ちなみに孫ピンの「(ピン)」というのは足切りけいのことです。足切り刑によって両足が切断されたので孫ピンと歴史書に記されることになったんですね。
さて、両足を失った孫ピン。しかし、天は彼を見捨てませんでした。たまたま、魏にきていた「斉」という国の使者に助けられ彼は運よく逃げることができたのです。その後の孫ピンは斉に仕えることになります。
斉の軍師となった孫ピン。やがて、涓に復讐する機会がやってきます。涓の仕える魏と趙が同盟して韓を攻めてのです。その韓は斉に助けを求めます。
その戦いにて孫ピンの斉軍と涓の魏軍は争うことになります。紀元前343年の「馬陵の戦い」です。
斉の軍隊は魏の都である「大梁」を攻めたてます。その後、孫ピンは田忌将軍にいったん兵を引き上げるよう伝えました。しかも、ただ引き上げるだけでなく「その日は10万のかまどをへらし、次ぐ日には5万、その次に日には3万と毎日かまどの数を減らしてくれ」と作戦を伝えるのです。これが、どう敵を欺くことになるのか?
涓は引き上げた斉の軍の後を追うのですが、かまどの数が明らかに毎日減っている。そこで推測するわけです。「毎日、かまどの数が減っているということは兵の数が減っているということ。なるほど、多くの兵が日を追うごとに逃げ出しているということではないか。士気も当然減っているぞ!」
一気に追い討ちをかけるべき!と判断し涓は追撃するわけですが、しかし、これは孫ピンの計算。孫ピンは馬陵という道がせまく崖になっている場所で待ち構えます。そして、道端の大きな木に「涓。おまえは、この木の下で討ち死にするだろう」と削って書いておきました。
そうとは知らず涓はまんまと日が暮れた頃、この場所に到着。「うん?なんか木に書いてあるぞ?」とタイマツを照らして字を読もうとした瞬間、隠れていた斉の軍の矢が一斉に放たれ、魏の軍は狭く逃げ道のない馬陵で慌てふためくのでした。
そして、それらすべてが孫ピンの計略であったことを悟った涓は「無念だ。あいつに手柄を立たせてやるとは」とつぶやき討ち死にしたといわれています。
これらの数々の孫ピンの戦略をまとめた書物が「孫ピン兵法」。彼の仕えた「斉」という国では彼のような思想家、兵法家を多く集めていたことでも有名です。
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