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戦艦 大和




 

戦艦「大和」の誕生


 1921年、第一次世界大戦の勝利国たちの間でワシントン条約が取り交わされます。これにより各国保有する戦艦の数は制限されるのですが、日本はアメリカやイギリスに比べ総排水量で6割程度と定められてしまいます。

 このワシントン条約は1936年12月31日で廃止となる。そこで、一気にこの戦力差を埋めなければならない。そのためには、かつて前例がないほどの巨大戦艦をつくる必要がある!

 そこで、計画されたのが戦艦「大和」の建造です。 

 巨大戦艦の建造は徹底的に秘密とされます。呉海軍工廠にて建造されるのですが、外部から見えないように屋根で覆い、立ち入りなども徹底的に管理します。

 そして1940年、巨大戦艦は進水。名前を「大和」としました。

 この戦艦「大和」が航行試験を得て第一戦隊に編入されたのは真珠湾攻撃の1週間後、1941年12月16日です。

 

戦艦「大和」のスペック


 
基準排水量・64000トン/満載排水量・71100トン/全長263メートル/最大幅38.9メートル/最大速度・27.46ノット/航続距離・7200海里/主砲・45口径46センチ砲×9/乗組員・2800名

 戦艦「大和」の全長は263メートル。最初の設計ではもっと大きくする予定でしたが、大きくするとデメリットも出てくるんです。まず、速度がでなくなるし、大きければそれだけ的が大きい。つまり、敵の攻撃を受けやすくなるんです。ですから、大和は全長を短くして、その分、横幅を広くするという形になっています。

 しかし、それでも大和はデカイ!なぜ、そんなに大きくする必要があったのか?実は、どうしても46センチ砲が搭載したかったんです。

 当時の標準は40センチ砲。これを上回る46センチ砲を搭載できれば、相手がまだ射程距離外で攻撃ができなくても、こちらはガンガン攻撃できる!46センチ砲は40センチ砲に比べて射程距離が5000メートルくらい長いですからね。

 しかも、アメリカは大西洋と太平洋をどちらも防御する必要がある為に必ず艦隊はパナマ運河を通るんです。このパナマ運河を通れないような巨大な戦艦はつくれない!つまり、大和は圧倒的に有利なのです!!!

 とはいえ、この46センチ砲の重さは、なんと単体で2700トン。もう、これだけで駆逐艦1隻分の重さなんです。だから、大きくせざるをえなかったといえます。

 速度も27.46ノットを記録します。当時の戦艦の速度が24ノットくらいなので速い。なんで、デカイ図体で速く動けたのかというとバルバス・バウという技術のおかげ。

 

 簡単にいうと、下のあごのような部分で波を起こして船首が起す波をを打ち消すというものです。

 

大和の誤算


 まさに最強ともいえる戦艦「大和」。しかし、大きな誤算がありました。時代はすでに戦艦が打ち合いするようなものではなく。空母から発進した戦闘機で戦う時代。いかに大和が強力で射程距離が長い砲撃をあたえることができたとしても、敵はもっと遠くの空母から戦闘機を発進させて攻撃してくるんです。すでに、海戦での主役は戦艦ではなく、空母から飛び立った戦闘機の航空戦となっていたのです。

 実際、戦艦「大和」は、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参加しますが大きな成果を上げることはできませんでした。

戦艦「大和」の最後

 1945年4月1日、アメリカ軍はついに沖縄本土上陸作戦を開始します。これを受けて戦艦「大和」も沖縄へ出航。すでにアメリカ軍が待ち構えている海域にて46センチ砲で敵を蹴散らせて、その後は岸に乗り上げて陸上砲台として活躍する予定でした。

 しかし、相手は14隻の空母を停留。日本側にも「長門」「伊勢」などの戦艦が残っているものの、それを動かすだけの燃料がない。そこで、戦艦は大和のみとし、あとは軽巡洋艦と6隻の駆逐艦という心もとない戦力での出航です。

 4月6日に大和は出航。しかし、九州最南端を航行中にいきなり、敵の攻撃を受け7日の14時23分に沈没することになるのでした。