日本軍のエースパイロット坂井三郎
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「大空のサムライ」がベストセラーとなった坂井三郎という人物をご存知でしょうか?
太平洋戦争のエースパイロットとして硫黄島戦では、片目の視力を失いながらも零戦1機で約15機のグラマン戦闘機を翻弄し、最終的には64機の撃墜を記録した人物です。
この坂井三郎は大正5年8月26日に佐賀県に生まれました。一般の家庭に生まれながらも空に憧れを持ち予科練に志願しますが不合格。昭和8年には、海兵団に入団します。しかし、空へのあこがれを捨てることは出来ず、後に飛行訓練生に受験し合格。満州で実戦経験を積み、太平洋戦争開戦時は台南空で迎えました。
台湾からフィリピンに飛ぶ渡洋作戦に従事しますが、その後ラバウルへ転戦し、毎日のようにガダルカナルへの出撃を繰り返しますが、その時にアメリカ軍から攻撃を受け目を負傷。その後は、右目の視力をほぼ失うも昭和19年には最後のエース部隊といわれた松山航空隊の教官となります。
昭和20年の硫黄島戦では、坂井三郎にまでも特攻の命令が下されます。しかし、敵も見つからず、仲間ともはぐれてしまい帰還しようとしているところに敵のグラマン戦闘機の大軍と遭遇!
片目の視力がほぼ失われているにも関わらず零戦1機で約15機のグラマン戦闘機を翻弄しました。
撃墜数は64機。さらに1機の戦闘機も壊すことはありませんでした。
坂井が、なぜこれほどまでの技術を持つことが出来たのか?
当時は、戦闘機をガンガン使って訓練という訳にはいきません。ですから、坂井は陸上での訓練法を行っています。戦闘では先手必勝がもっとも有効。そこで坂井は目を鍛えました。遠くを見る訓練をし、なんと最終的には昼間でも星を見つけ出すまでに目を鍛え上げたといいます。また、動体視力の訓練にて電線から飛び立つ雀の数を一瞬で数えるという訓練を行っています。先頭では相手が1機とは限りませんので瞬時に敵機の数と位置を把握し、最適な対処法を考え出さなければならないわけですね。
また、戦闘中は飛行機を激しく動かしますので上も下もわからなくなります。普通は計器で確認しますが、その一瞬が命とりとなる可能性もあるため逆立ちや鉄棒などでバランス感覚の鍛錬も行っています。
さらに空中戦では激しいGを受けながら繊細な操縦操作が求められるため体力が必要です。強い握力と腕力が必要となるため棒に昇って長時間耐えるという訓練がありますが、通常は数分で落ちてしまうところ坂井は30分ほどは捕まることが出来たそうです。
また、敵地に向かう時もわざと経路を数キロずらして到達するようにしていたといいます。飛行機はエンジンが邪魔して目的地を見失うことがあるそうですが、目的地から少しずれて到達すれば左右から目標を視認することができるのでそういった僅かなことにも気を使っていたそうです。
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