小野小町は本当に美女だったのか?
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小野小町というと絶世の美女というのが頭に浮かぶ人も多いでしょう。
しかしです!!!
いったい、何を根拠に小野小町は絶世の美女なんていっているのでしょう?肖像画がありますが、後世に想像で書かれたものですのであてにはなりません。
では、なぜ小野小町が美女といわれるようになったのかというと古今和歌集での序文の中で紀貫之が「小野小町は古の衣通姫(そとほりひめ)の流れなり」と書いたことが原因なのです。
衣通姫っていうのは、允恭天皇、第19代天皇の后で”美しさが着物を通してにじみ出るようだ”といわれていたんですね。なので衣を通してにじみ出る美しさの姫で衣通姫!
つまり、小野小町もその衣通姫の流れと紀貫之が書いたことから、小野小町は美女であったという解釈なんですね。
しか~し!
小野小町が生まれたのは正確にはわからないものの825年という説が有力です。対して、紀貫之の生まれは866年もしくは872年と言われています。
つまり、紀貫之が生まれて女性を美しいと感じる年齢になることには、すでに小野小町は50代、60代だった可能性があるわけです。もしかしたら、二人は出会っておらず、紀貫之は伝聞情報だけで美しいと書いた可能性の方が高いかもしれません。
さらに紀貫之が「衣通姫の流れ」と書いたのは、小野小町の容姿に対してではなく、歌のついての評だったのではないかともいわれています。
古今和歌集という歌集の序文の記述ですのでいきなり、小野小町の容姿について語ったというよりは、歌についての評という方がしっくりくる感じもしますね。
ちなみに小野小町というと後ろ姿の絵が多いのですが、これは絵にもかけない美しさとして想像力をかき立てるためだといわれています。
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