日朝修好条規
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日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)とは、1876年に日本と朝鮮(現在の北朝鮮と韓国)の間で締結された条約です。
この日朝修好条規が結ばれる原因となったのが1875年の江華島事件。この江華島事件とは、朝鮮沿岸にて日本海軍が演習をしていたところ、朝鮮軍が江華島付近でこれを砲撃してしまいます。これに対して日本は江華島を占拠。そして、両国間で和平交渉が進められ締結されたのが日朝修好条規でした。
一般的には、この日朝修好条規は日本にとって有利で朝鮮にとっては不利な不平等条約と言われています。少し内容を見てみましょう。
1.日本は朝鮮を自主独立の国であり日本と同等の権利を持つ国家として認める。
2.日朝両国がそれぞれの首都に公使を駐在させる。
3.条約の文面はそれぞれ、日本は日本語、朝鮮は漢文(朝鮮真文)を用いて作成する。
4.開港した地域においては土地を貸借し家屋を作ったり、朝鮮人の家屋を賃借することを各人に任せる。開港した場所は日本人の従来通商を認める。
5.釜山以外の2港を開港。(のちに元山、仁川が開港)
6.韓国沿岸にて日本船が台風などの被害に遭遇した折は、緊急避難的にどの港にも寄港できる。
7.朝鮮沿岸は未整備で危険なので両国が安全な航海ができるように日本側が整備の為に測量し、位置や深度を明確にして地図を作ることを認める。
8.今後日本商人を管理する役所を設け、もし両国に交渉する事件がある時は、その役所が行う。
9.両国間の貿易は自由貿易とする。両国官吏は一切関与しない。
10.日本人が各開港場にて罪を犯した場合は日本の法律で裁判する。(領事裁判権)
11.通商規約については6カ月以内に再度協議する。
12.手続規定。
どうでしょう?どこが不平等なのかわかりますか?正直、これを読んだだけでは不平等な箇所がどこなのか分かりづらいかもしれません。
まず、問題なのは開港ですね。釜山以外の開港を迫っています。すでに日本公館があった釜山以外は後に決められることになるのですが、結果として1880年に元山、1883年に仁川が開港しました。幕末に日本が無理やり開港されたのと同じですね。
また、よく言われているのが領事裁判権です。日本人が開港で罪を犯した場合は日本の法律で裁かれますが、朝鮮の人が日本で罪を犯した場合は、朝鮮側の領事裁判権は一切認められません。
また、朝鮮側に圧力をかけているのが”朝鮮を自主独立国として認める”というところです。独立国として認めるということはいいことに思えますよね。
ですが、当時の朝鮮は17世紀以降、清の属国となっていました。日朝修好条規では、日本は朝鮮を独立国と認めていますが、実際には当時の朝鮮としては他国の庇護なくしては生き残ることは難しい状況下です。朝鮮を独立国として認めるということは「朝鮮は清の属国ではないですよね。独立国ですよね!でもね。困ったことがあったら我々日本を頼ってね」と遠回しに言っているようなもんなんですね。つまり、これまで通りに清を頼るか?新たに日本に頼るか?と圧力をかけているようなもんなんです。
朝鮮側でも親日か?親清か?大いに揺れ動きます。
当時、政治の実権を握っていたのは閔一族。彼らは江華島事件以降、日本寄りの政策をとっていましたが、閔一族の専横に業を煮やした大院君派(閔一族の前に実権を握っていた)やそれを支持する軍人らは日本大使館を焼き討ちし、多くの日本人や閔一族の要人を殺します(壬午軍乱)。これには、日本はもとより清も出兵し、清は日本よりも先に大院君を捕縛し、閔一族を支援。
それ以降、閔一族は清と手を組むようになります。一方、日本と手を組み近代化を図ろうと試みる改革派は金玉均を指導者として1984年に漢城でクーデターを起こし新政府を樹立しました(甲申政変)。
これには清が軍を投入し新政府は崩壊。日本も戦線の拡大を望まず1985年には天津条約を締結し日清両国は互いに朝鮮から撤兵し、今後出兵する時には事前に勧告する約束となります。
そして、最後が自由貿易のところ。「両国間の貿易は自由貿易とする」というところ。この条文では双方無関税とされていましたが、後に朝鮮側の関税自主権が封じられます。つまり、朝鮮から日本に入ってくる品物に関しては、日本は高い税金をかけられるけど、日本から朝鮮に入ってくる品物には税金をかけることが出来ないんですね。
そして、後にこの朝鮮をめぐり日本は清との争うことになるのです。(日清戦争)
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