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歴史年代ゴロ合わせ暗記>日本の領土問題

日本の領土問題と歴史

 
 竹島問題尖閣諸島問題北方領土問題など日本にも領土問題がいくつも存在することはみなさんご存知ですね。

 しかし、そもそも日本の領土ってどうやって、いつ頃決まったのか?その辺をよく知らないという人も多いでしょう。

 今回は、その辺を学んでいきますね。

 日本は、明治維新を経験し、近代国家を目指して、欧米列強国がつくり上げた万国法(ばんこくほう・現在でいうところの国際法)を受容しようという動きとなっていきました。

 一方の中国や朝鮮半島、ベトナムなんかは、昔からの国家概念である中華秩序、つまり、中国の皇帝が周辺の国に対して王の称号などを与え、臣下とするような政治的影響下の中に未だいました。

 日本は、古くから中華秩序の影響は少なく、貢物などを送ったりした時期はありましたが独立の立場を貫いてきていましたので当時も中国の影響を大きく受けずに自由な行動が出来たんですね。

 1868年には、日本は朝鮮に使節を送り、新政府の樹立と新たな国交の通商を求めます。

 ですが、この時は、文面に天皇という文字があり、この「皇」が中国の皇帝と同等の位を示すものであり、許すことは出来ないとのことで国書の受け取りは拒否されます。

 この事で、日本は「まず、中国との国交樹立をしなければならない」と考え、1871年に当時の中国、清との間に
日清修好条規を結びます。これは、対等条約といわれ、国際法の原理に基づく、両国の対等の関係を定めた条約です。

 さて、この年ですが、琉球にて島民66人が台湾に漂着して、そのうち54人が台湾の住民に殺害されるという事件が起こります。当時の琉球は日本と清との間で両方に属していたような状態の半独立国でした。

 日本は、清に対して琉球島民殺害の責任を清に問いただしますが、清は台湾の住民は国家統治の及ばない者(他外の民)であるとして責任を回避。そこで、日本は台湾への出兵を決めます。(
台湾出兵 1874年

 それまでは、日本と清との間で帰属がはっきりしなかった琉球でしたが、この問題の処理にあたり、日本に有利となり、清は琉球島民を日本国属民と認め、日本は琉球に沖縄県を置いて日本領土とします。(
琉球処分 1879年

 ただし、琉球を日本国領土にすることは清は当時認めておらず、日清戦争の後に正式に認めることになります。

 また、1875年には江華島事件が起こりました。これは、日本軍艦が朝鮮の江華島で測量をしていたため、朝鮮の軍隊と交戦した事件ですが、これで日本は永宗城島を占領。この江華島事件をきっかけに日本は再び朝鮮に対して国交の樹立を迫ります。

 そして、1876年に
日朝修好条規が結ばれました。これは、日中修好条規と違い朝鮮側にとっては不平等な条約です。

 清や朝鮮との国交樹立。また、南の国境画定とともに明治政府では、北の領土問題も同時進行で進ませていました。

 特に樺太(サハリン)は、そこに住む日本人とロシア人の間で紛争が起こるなどしていました。ですが、当時の日本では、ロシアと戦争しても勝てる可能性は少なかったんですね。

 それどころか、下手をすれば北海道まで持ってかれちゃう・・・。

 そこで明治政府は1875年にロシアとの間に
樺太・千島交換条約を結びます。つまり、日本側は樺太をぜんぶロシアに譲るから千島列島をくれ!ってことです。

 まぁ、土地面積みれば樺太の方がでっかいですけどね。だから、当時の新聞なんかには「樺太が放棄された!」と嘆かれていました。

 1876年には小笠原諸島を日本領とします。これは、イギリスがちゃっかり英国旗を立てたりしていましたが、アメリカの反対で日本領となり、国際的にも認められます。

 そして、北海道ですが、これは1869年に蝦夷地を北海道として集団移住や産業開発を推し進めました。明治維新の当初はアイヌが2万人ほど、日本人が10万人ほどでしたが半世紀後には北海道の人口は230万人ほどにまで膨れ上がりました。

 どうでしょう。こうして、1860年代後半から1870年代にかけて日本の領土は近隣外交によって国境画定されたんですね。

 
1871年 日清修好条規
1974年 台湾出兵
朝鮮 1875年 江華島事件
1876年 日清修好条規
ロシア 1875年  樺太・千島交換条約 
小笠原諸島  1876年  日本領有を宣言 
沖縄    1871年  鹿児島県へ編入 
1872年  琉球藩設置 
1879年 琉球処分