歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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ナポレオン


 ナポレオンの「我輩の辞書に不可能はない」「3時間しか眠らない」といった言葉や逸話はあまりに有名ですが、これらは実は後世の作り話。

 本当の彼の言葉にこんな名言があります。

 「それにしても、私の生涯はなんというロマンであろう」

 

 『ナポレオン言行録』オクターヴ・オリブー編に記されています。

 自ら「ロマン」と語ったナポレオンの人生。では、その彼の生涯について少し詳しく見ていきましょう。

 ナポレオンの登場

 ナポレオンが頭角を現してきたのはフランス革命の後半。フランス革命っていうのは、まぁ、簡単にいってしまえばルイ16世や彼の妻であったマリ−アントワネットが処刑された”あれ”ですね。ベルサイユの薔薇です。40代から50代の人はみんな漫画で知っていると思いますし、宝塚ファンなら絶対に知っていますね。

 当時のフランスは財政危機だったんです。原因は、主に戦争です。戦費がかさんでフランスはお金に困ってしまったんですね。どうにかしてくれよ〜。ってことで革命が起きたんです。そして、ルイ16世が処刑されるわけなんですが、このフランスの革命はヨーロッパの国々からはよく思われていませんでした。なぜか?

 国王が革命によって殺されたなんていうのが、自分たちの国にも広がってきたら各国の君主たちは己の立場も危うくなりますからねぇ。
対仏大同盟っていうのを組んで国際的な反革命の団結を結成するんです。

 しかも、フランスでは未だ革命中なのでまだ王党派といわれる王政を支持する人たちもいました。

 そんな中、コルシカ島でうまれた26歳のナポレオンが登場するのです。フランス首都パリで起きた王党派の反乱を大砲を使う戦術に長けた青年が鎮圧することになります。これを
ヴァンデミエールの反乱といいます。1795年の話です。

 これにより、当時フランスの政治の中心にいた穏健共和派といわれる人たちにとってナポレオンは頼れる存在として認識されます。

 そして、翌年の1796年3月にはナポレオンがイタリアに遠征することになります。この頃のイタリアといえばオーストリアの支配下にありました。ロディ・アルコレの戦いでオーストリア軍を撃破するとフランスとオーストリアは
カンポ・フォルミオ和約を結びます。これによって対仏大同盟は瓦解することになるんです。もう、この頃にはナポレオンの名声は民衆レベルにまで知れ渡っていました。

 1798年から1799年にはエジプトに遠征します。この目的は、イギリス・インド間の連絡を絶つことです。しかし、裏側では、国内にて民衆の支持を得始めたナポレオンを外に追いやりたい人たちと功績を積み上げたいナポレオンの思惑とが一致したともいえます。

 ですが、イギリスは海での戦いはめっぽう強い。ですから、ナポレオンは
ネルソン率いるイギリス海軍に敗北してしまいます。これがアブキール湾海戦(ナイルの海戦)です。

 この勝利によってイギリスは今がチャンスとロシアなどを誘い込み
第二回対仏大同盟を結成します。再びフランスはピンチに立たされるんですね。フランスにしたら「もう、またピンチになっちゃったよ。誰かどうにかして〜」って感じです。

 それを察知したナポレオンはフランスに戻り、クーデターを引き起こします。
霧月18日のクーデタ(ブリュメール18日のクーデタ)です。そして、このクーデタ成功により新しい政治体制が生まれます。統領政府といって3人の統領からなるシステム。とはいえ、これは事実上ナポレオンの独裁政権となっていきます。

 
ナポレオンの独裁体制

 権力を手中に収めたナポレオン。では、彼がどんな政策を行っていったかを見ていきます。

 まずは、1800年に
マレンゴの戦いです。これは、イタリアに再び進行してオーストリアを撃破しリュネヴィルの和約を結びます。つづいて1802年にはイギリスとの間に講和を結びました。アミアンの和約です。これで第二回対仏大同盟は崩壊です。さらに1801年にはローマ教皇とも関係を修復します。これはコンコルダートといいます。内容といえば、フランスにおけるカトリックの復活です。まぁ、フランスの国教にされることはなかったんですが、多くのフランス人が信仰する宗教として認めますって約束をしたんですね。代わりにナポレオンが要求したのは、革命中に政府によって農民などに売却された教会の財産はそのままにするという約束でした。

 ナポレオンは、フランスでカトリックを復活させる代わりにかつての教会の財産は、現状のまま教会には返さないよっ。と約束したんですね。これによって、農民らのハートをナポレオンはガッツリ握るわけです。

 以上が対外的なナポレオンの政策の主なもの。

 次に内政を見ていきます。1800年に
フランス銀行の成立。そして1804年に有名なナポレオン法典が制定されました。これには、法の前の平等。契約の自由。私有財産の不可侵などが規定されています。革命の成果の集大成ともいえるもので非常に完成度の高いものです。現在の日本の民法もナポレオン法典から学んでいるところが多いんですよ。

ナポレオン法典(抜粋 
(家族制度)
213条:夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う。
371条:子は年齢のいかんを問わず、父に対して尊敬の義務を負う。

(所有権の絶対)
545条:何人も公益の理由に基づき、かつ正当な事前の補償を受けるのでなければ、その所有権の譲渡を強制されることはない。

(契約の自由)
1134条:適法によって締結された合意であれば、当事者間にて法律としての効力を持つこととする。合意は、相互の承諾、または法の認めるもの以外での取り消しは無効とする。


 ナポレオン法典と同じ年には、国民投票が行われます。ここで、ナポレオンは圧倒的な支持を得て
皇帝となるんです。以後、かれはナポレオン1世となり、これ以降のフランスの政治体制を第一帝政といいます。

 これでフランスの革命は完全に終了したわけですが、結局、王を殺してしまって代わりに皇帝が生み出されたという結果になったんですね。ルイ16世からナポレオンに変わったわけです。

 では、このフランスの動きをヨーロッパ諸国はどう思っていたのか?やはり、快く思っていないんですね。ナポレオンは王族出身ではないですからね。どこぞのパッと出の戦争が得意な奴が皇帝となりやがったとでもいう感じです。革命を経て国民によって選ばれたという点も他国の王族にとっては気に入りません。

 ですから、イギリスを中心にまたもや対仏大同盟を結成します。イギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデンなどが参加しました。1805年です。

 ナポレオンは、イギリス本土をたたくためにド―ヴァー海峡にスペインとの連合艦隊を結成。しかし、エジプトでフランス艦隊はイギリスに敗北してしまいます。これがトラファルガーの海戦。相手は、またもやネルソン提督。イギリスはやはり海での戦いは強いんです。ですが、この戦いによってネルソンは命を亡くすことになってしまうんですね。勝利と引き換えに命を奪われてしまった・・・。

 イギリスに敗北したナポレオン。しかし、同年のアウステルリッツの戦いには勝利します。この戦いは三帝会戦とも呼ばれます。フランスのナポレオンがオーストリアのフランス2世、ロシアのアレクサンドル1世と戦ったので3人の皇帝が一同に会したということで三帝会戦です。

 その結果、フランスとオーストリアとの間に
プレスブルクの和約が締結されます。これによって第三回の対仏大同盟は崩壊です。

 1806年にはナポレオンは
ライン同盟という傀儡連邦を成立させます。傀儡っていうのは、操り人形という意味です。影響下にあった西南ドイツ諸邦に軍事同盟を作らせたんです。プロイセン、オーストリアに対抗するためですね。これによって、16のドイツ諸邦が神聖ローマ帝国から離脱し、ついに844年間の歴史をもつ神聖ローマ帝国は名実ともに崩壊しました。

 1806年10月にナポレオンはプロイセンとドイツの中部イエナで戦います。さらに1807年にはプロイセン
・ロシアと
アイラウでの戦いで勝利。これにより、プロイセンとロシアは1807年にティルジット条約を結ばされることになります。プロイセンは領土の半分以上をフランスに奪われナポレオンはここにウェストファリア王国をたてました。またナポレオンは東南部のプロイセン領を切り取り、ワルシャワ大公国を建国します。


 
ナポレオンの全盛期

 こうして、ナポレオンは1810年頃には絶頂期を迎えることになります。占領地には、自身の兄弟を国王として派遣。兄のジョゼフはスペインとナポリ。弟のルイはオランダ。末の弟ジェロームにはウェストファリア王国の王となります。

 ドルストイの文学作品である『戦争と平和』は、このころの状況を描いた作品ですね。


 


1811年のナポレオン勢力図
出典:ウィキペディアコモンズ


 ナポレオンの没落

 イケイケのナポレオンにもついにストップがかかる時がやってきます。まずは、スペインから。スペインへの侵略は1808年から開始していきますが、これにスペインの民衆は激怒!もゲリラ戦を展開しナポレオンを苦しめ、結局これを鎮圧することはできませんでした。

 そして、決定的になるのがロシア遠征の失敗です。

 なぜ、ナポレオンはロシアに遠征をしたのか?それは、ロシアがナポレオンの出した大陸封鎖令を無視したから・・・。この大陸封鎖令っていうのは、イギリスへの嫌がらせです。島国であるイギリスへ経済封鎖をして打撃を与えようとしたんです。イギリスの商品がヨーロッパに入ってこないようにして、イギリスへも商品が入ってこないようにイギリスをヨーロッパから切り離してしまおうという作戦。ですが、当時すでにイギリスは新大陸やアジアに貿易の拠点を持っており、大したダメージを受けない・・・。逆に苦しめられるのはイギリスへの貿易を封じられたロシアなどだったんです。

 ですから、ロシアはこの大陸封鎖令を無視してイギリスへの穀物輸出を続けました。そこでナポレオンはロシア遠征を決意するんです。

 最初のうちはナポレオンが優勢でモスクワを制圧するんですが、ここでロシアがとった作戦が焦土作戦。これは、もう自らモスクワを火の海にしてしまうんです。食べ物もなければ、略奪する物もない状態。ですから、ナポレオンは食糧不足のため撤退を余儀なくされます。、この撤退の最中にも途中でコサック隊などの追撃を受けることになりナポレオン軍では、脱走兵が増え始め、馬は餓死し、捕虜になる兵も増え続けます。しかも、ロシアだから寒いですしね。60万、70万の兵で出発したといわれているロシア遠征でしたが死者は40万人、捕虜が10万人、さらには脱走兵とパリに帰ってこれたのは数千とか数百人だったといわれています。

 このロシア勝利を契機にナポレオン支配下にある各地で「おっ、どうやらナポレオンとて無敵ではないではないか!」と支配打倒の動きが見え始めます。これを
解放戦争といいます。

 1813年には
ライプチヒの戦いにてプロイセン・オーストリア・ロシアの同盟軍にナポレオンは敗北しました。

 そして1814年ついに諸国の軍によりパリが占領されナポレオンはエルバ島に島流しになってしまいます。この島はイタリア半島のすぐ西にあるナポレオンの出身地のコルシカ島のすぐ東側です。

 
ナポレオンの百日天下

 さて、ナポレオンのいなくなったフランス。では、その後継者は誰になったのか?

 ドイツに亡命していたルイ18世が即位することになります。革命でルイ16世が殺されて、すったもんだでナポレオンが皇帝になったのに結局ルイ18世・・・。う〜ん。なんだかなぁってところですが、ヨーロッパ諸国にとっては元通りが一番無難!ってことだったんでしょうね。

 しかし、ナポレオンの占領によってグチャグチャになってしまった国境。どうしようか?ってことで話し合いがもたれます。(ウィーン会議

 ですが、各国も自国に有利に進めたいのでうまく話がまとまりません。それをチャンスと見たナポレオンはエルバ島を脱出してパリに戻り皇帝に返り咲くんです。ですが、すぐにイギリス、オランダ、プロイセンらの連合軍に
ワーテルローの戦いで敗れてしまいます。

 その後のナポレオンは南太平洋のセントヘレナ島へ流されてしまいます。これがナポレオンの百日天下というヤツです。

 ナポレオンは、結局この地で1821年に亡くなることになります。死因は毒殺といった説もありますが、一般的には病死といわれています。51歳でした。

 幼少時代は、読書にふけり、いじめの対象にもなっていたといわれるナポレオン。古代ローマの英雄カエサルに憧れ、ついにはフランスの皇帝にまでなり、様々なものを後世に残しています。

 前途したナポレオン法典は、日本を含む諸外国の民法に影響を与えていますし、エジプト遠征中の1799年に遠征軍の大尉が発見したロゼッタストーンは後にエジプト文字の解読のきっかけとなります。

 缶詰の原理も実はナポレオンの影響が大きく、ナポレオンが長期保存のできる軍用食のアイデアを求めたところパリの製菓会社のアベールが考案したものが元となっています。

 あっ、それからナポレオンといえば、身長が小さいといったイメージを持たれる方も多いのですがナポ
レオンの身長は167〜168センチといわれています。当時のヨーロッパ人の平均身長から見ても決して小さくないんですね。しかし、軍人はみんな大きかったようです。親衛隊の入隊基準が178センチとされていたので周りがデカかったようです。

ナポレオン年表 
1796.3 イタリア遠征開始 
1798.5  エジプト遠征
1799.6  第二回対仏大同盟 
1799.10  ナポレオン帰国 
1799.11 ブリュメール18日のクーデタ 
1800.1  フランス銀行成立 
1800.5  第二回イアリア遠征 
1802.3  アミアンの和約 
1804.3  ナポレオン法典 
1804.5  ナポレオンの皇帝即位 
1805.8  第三回対仏大同盟 
1805.10  トラファルガー海戦 
1806.7  ライン同盟 
1807.7 ティルジットの和約 
1808.5  五月虐殺 
1812.6  ロシア遠征 
1812.10 ロシア撤退 
1813.10 ライプチヒの戦い 
1814.9 ウィーン会議 
1815.2 ナポレオンエルバ島脱出 
1815.6 ワーテルローの戦い 
1821.5 ナポレオン死去