宮本武蔵の新事実
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宮本武蔵といえば、二刀流でめっちゃ強いというイメージがありますね。芸術家としての才能もあり、正に男子からすれば理想の男!!!
しか〜し!宮本武蔵VS佐々木小次郎で有名な巌流島の戦いだけ見てみても宮本武蔵の違ったイメージが見てとれます。
まず、巌流島の戦いの時の武蔵と小次郎の年齢差・・・。
書物によって違うのですが、巌流島の戦いの時の武蔵の年齢は19歳、または29歳とあります。10年も違うわけですが、まぁ、どっちにしても剣豪としては元気いっぱいの時ですね。対する小次郎の年齢は・・・。実は、小次郎に対する資料はかなり少なく正確な年齢はわからないのですが巌流島の戦いの時、すでに60歳前後だったのではないか?といわれています。人生50年といわれていた時代の60歳VS脂ののっている剣豪ってことになれば、ん〜、勝負見えている気もしますよね。
そして、武蔵は決闘の場所に遅れていなかったともいわれています。
武蔵はわざと遅刻をして小次郎を怒らせ戦いを優位に進めたという話が有名ですが、この決闘に立ち会ったとされれる宮本伊織(男性)という武蔵の養子の書き残した碑文には武蔵は定刻通りに来たと書かれています。
また、小次郎は武蔵の弟子に殺されたという文章も最近発見されました。。
「沼田家記」という細川家小倉藩の家老であった沼田延元が話した内容を家来が書き残したものですが、これによれば、小次郎と武蔵、双方の弟子たちがどちらの師匠が強いかで言い争いになり、ついには巌流島で決闘するということになったと書かれています。しかし、武蔵と小次郎は、お互いに弟子たちは連れてこず、二人だけで決闘しようと約束をします。弟子たちにしたら、師匠たちの真剣勝負!見たくてしかたなかったはずですけどね。まぁ、真剣勝負には邪魔ということになったのかもしれませんね。小次郎は、この約束はちゃんと守り、一人巌流島へ。しかし、武蔵は弟子を何人も連れ隠しておいたというのです。
決闘の後、敗れた小次郎を武蔵の弟子たちが集まって殺してしまい、それに怒った小次郎の弟子たちが武蔵を殺すために探し回りますが、武蔵は沼田延元にかくまってもらい難を逃れたというのです。
もともと巌流島の戦いは、細川家がセッティングしたものですし、武蔵をかくまったのは沼田延元でしたから話の信ぴょう性はかなり高いのでしょう。
小次郎は武蔵の弟子に殺されたという文章は以前からあったのですが、この「沼田家記」の発見でさらにリアリティが出てきたというわけです。
・・・ということは、武蔵は巌流島で60歳のおじいちゃん相手に船の櫂でつくっためっちゃ長い棒でブッ叩き、最終的には弟子たちが寄ってたかっておじいちゃんに襲い掛かったということになります。
まぁ、真実はわかりませんけどね・・・。
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