歴史年代ゴロ合わせ暗記 

歴史年代ゴロ合わせ暗記イースター島

イースター島・モアイの謎


 1722年4月5日にオランダの探検家ヤコブ・ロックフェーヘンが上陸した南太平洋の島は、その日が復活蔡であったことにちなんでイースター(復活祭)島と名付けられました。
 
 現在では、復活祭を表すスペイン語による「バスクア島」と呼ばれています。また、島の人々は「大きな島」という意味の「ラパヌイ」と呼びます。

 さて、このイースター島ですが、そもそも島民たちはどこから来たのか?モアイはどのようにして造られたのかなど謎が多い島でもあります。

 イースター島には、高さ2メートルほどのものから21.6メートルもある「モアイ像」といわれる巨石像が1000体ほどもあるのですが、なぜこんなにもモアイを造る必要があったのか?謎だらけです。



 
イースター島の島民はどこから来たのか?

 島民の祖先はいつ、どこからやってきたのか?ノルウェーの人類学者であるトール・ヘイエルダールは「南米起源説」を唱えました。根拠としては、イースター島で栽培されているサツマイモの原産地が南米であること、イースター島に生えている葦がチチカカ湖(ペルーとボリビアにまたがる湖)の葦に似ていること、インカ帝国の遺跡にみられる技術がモアイ像の製造や運搬に役立てられている可能性があることなどです。彼は、自身の仮説を立証するために古代ペルーと同じ方法で作った船に乗り、ペルーの海岸からポリネシアのツモアツ諸島まで航海して、南米からのやってくることは可能であると主張しました。

 しかし、近年の研究では、島民の先祖は南米ではなく、アジアからやってきたポリネシア系の民族だといわれています。はるか昔に中国大陸から漢民族の南下によって台湾から玉突き的に押し出されて人々です。時代は4世紀〜5世紀といわれてきましたが、最近の研究ではもっと遅い1200年頃ともいわれています。

 イースター島のサツマイモに関しては、ポリネシア人が海を渡って南米からもたらしたものであり、葦もチチカカ湖のものとは種類が異なることがわかっています。また、ポリネシア人にも石で祭壇や建造物をつくる巨石文化があったこともわかっています。

 モアイ像はなぜつくられた?

 そもそも、ぜモアイ像はつくられたのか?また、ロックフェーヘンが島に上陸した時には、モアイは立っていたといわれています。しかし、およそ50年後にイギリスのジェームス・クックがイースター島に上陸した時には、ほとんどのモアイ像が倒されていました。なぜなのか?

 イースター島にやってきたポリネシア人は部族ごとにモアイという石造を造って守護神として崇拝する習慣がありました。モアイ像というと海に背を向けているイメージがある人もいるかと思いますが、基本的には集落を守るために建てられているので海沿いは背を向け、内陸部は海の方を向いているわけです。

 また、モアイの顔には白サンゴと黒曜石で作られた目もはめられていたといわれています。

 モアイは、年月とともに巨大化し、部族ごとに大きさを争うようになってきます。巨大な石造を作ったり運搬するためには多くの木材も必要となります。すると森林伐採、土地はやせ細り、農作物が育たなくなるわけですね。その一方で人口は増え続け、島民は食糧難に陥ったといわれます。すると、争いがおこるわけです。

 争いとなると相手の部族の象徴ともいえるモアイ像を倒し、モアイの目を取り外して粉々に砕くことで部族を守れなくするんです。これは、なんとなくわかりますね。スマホのカードゲームなんかでも自分がもっている最強カードがやられるともう負けた〜ってなりますもんね。そんな感じです。

 そうして、モアイ像は、部族によって争うように建てられ、争いによって倒されたわけです。

 モアイはどうやってつくられた?

 モアイは比較的加工しやすい素材である凝灰石でつくられています。「ラノ・ララク」と呼ばれる噴火口跡で、掘る道具も見つかっていますので島で作られたのは間違いないですね。しかし、最大の謎はどうやって運んだのか?噴火口跡から自分たちの集落まで運ばなければならないんですからね。

 これまでは、丸太をローラーにして、つる草を編んでロープにして引っ張ったといわれていましたが、どうやら実際にやると難しいようです。

 現在の有力な説は「歩かせる」!

 モアイの目の辺りがくぼんでいますね。そこにロープを巻き付けて4方向から引っ張ると歩く設計で作られているといいます。実際に実験してみてもあるくようです。イースター島の伝説に「モアイはひとりで歩いていった」というものがありそれにも符合します。