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歴史年代ゴロ合わせ暗記>三島由紀夫の生涯

三島由紀夫切腹事件

 
 昭和45年(1970)11月25日、三島由紀夫(本名:平岡公威)が陸上自衛隊市谷駐屯地にて切腹自殺をしました。

 ノーベル文学賞候補にも挙げらえていた三島由紀夫は、なぜ切腹自殺などという壮絶な最後をむかえることになったのか?彼は、何を訴えていたのか?

 1960年代から日本では、左翼革命の動きが活発化しておりました。学生らによる東大安田講堂占拠事件、安保共闘などといった反米や学校への不満、政府への怒りを当時の若い人々の一部が暴力もいとわず訴えていたんです。

 この流れを何とか止めようと考えていたひとりが三島由紀夫でした。

 実際に彼は自らが主宰する私兵組織「楯の会」というのもつくっております。これは、日本で激化し始めた左翼暴力闘争に危機感を抱いた三島が「このままでは日本でも共産革命が出来上がってしまう。警察や自衛隊は頼りにならない」と三島がつくった私兵組織です。

 第二次反安保闘争時には、三島から警察に電話があり、「どこに楯の会を配置すればよいか」と問い合わせが幾度もあったといいます。警察も三島由紀夫からの問い合わせなので無視することもできず昭和44年(1969)10月21日には「国際反戦デー闘争」で新宿の現場視察を楯の会は行っています。ただし、警察もかなり安全な場所で視察をお願いしており、戻ってきた三島は「僕らの出番はなかった」と憤慨していたといわれています。

 三島由紀夫の考え方としては、日本は大きな経済成長をとげつつある一方で伝統的道徳観や価値観を置き忘れ、国家としての自尊心を失っている。また、自主防衛のための自衛隊国軍化、象徴としての天皇にかわる「文化概念としての天皇制」、またそれに伴う憲法改正を訴え続けてきました。

 そして、昭和45年11月25日。楯の会の隊員を率いて、三島由紀夫は陸上自衛隊市谷駐屯地にある東部方面総監室を占拠。方面総監を人質とし、バルコニーから自衛隊のクーデータ蹶起を呼びかけるのです。

 三島は日の丸ハチマキ姿で演説を開始しますが、自衛隊員からは野次と非難が飛び交います。「降りてこい」「何言ってんだ」。そんな罵声の中、およそ10分間演説をした三島は「それでも武士か!これで俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ」と怒鳴り、総監室に消えると割腹自殺をとげます。名刀、関孫六で自身の腹を裂いた三島由紀夫。その首は胴体から離れ、介錯人の森田必勝も割腹自殺をとげました。


 【三島由紀夫・演説全文】  
    
” 私は、自衛隊に、このような状況で話すのは空しい。しかしながら私は、自衛隊というものを、この自衛隊を頼もしく思ったからだ。こういうことを考えたんだ。しかし日本は、経済的繁栄にうつつを抜かして、ついには精神的にカラッポに陥って、政治はただ謀略・欺傲心だけ………。これは日本でだ。ただ一つ、日本の魂を持っているのは、自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して、日本人の………。しかるにだ、我々は自衛隊というものに心から………。

自衛隊が日本の………の裏に、日本の大本を正していいことはないぞ。
以上をわれわれが感じたからだ。それは日本の根本が歪んでいるんだ。それを誰も気がつかないんだ。日本の根源の歪みを気がつかない、それでだ、その日本の歪みを正すのが自衞隊、それが………。

それだけに、我々は自衛隊を支援したんだ。

それでだ、去年の10月の21日だ。何が起こったか。去年の10月21日に何が起こったか。去年の10月21日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて、これが完全に警察力で制圧されたんだ。俺はあれを見た日に、これはいかんぞ、これは憲法が改正されないと感じたんだ。

なぜか。その日をなぜか。それはだ、自民党というものはだ、自民党というものはだ、警察権力をもっていかなるデモも鎮圧できるという自信をもったからだ。

治安出動はいらなくなったんだ。治安出動はいらなくなったんだ。治安出動がいらなくなったのが、すでに憲法改正が不可能になったのだ。分かるか、この理屈が………。

諸君は、去年の10・21からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が20年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。

去年の10・21から1年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない! 自衛隊が国軍になる日はない! 建軍の本義はない! それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。

おまえら聞けぇ、聞けぇ! 静かにせい、静かにせい! 話を聞けっ! 男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。

それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の………アメリカからしかこないんだ。

シビリアン・コントロール………シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのが、シビリアン・コントロールじゃないぞ。

………そこでだ、俺は4年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。………そうした自衛隊の………最後の30分に、最後の30分に………待ってるんだよ。

諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。

諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。

そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ

抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきた、という、ことを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
一人もいないんだな。よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命………。

それでも武士かぁ!それでも武士かぁ!

まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。

天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!”

  

 前途したように三島の演説時には罵声が飛び交い聞き取れない部分も多くあります。「・・・」の部分は当時のマイクでは拾いきれなかった部分です。

 演説の最初の方で訴えた10.21は国際反戦デーです。三島ら楯の会が警察から新宿の現場の視察を依頼された時のことを言っています。この時、すでに警察のデモに対する対応も訓練と経験を積み装備も充実してきており、機動隊員らの圧勝だったんですね。三島はこれを間近に見て感ずることが多くあったようです。

 また、シビリアンコントロールというのは民主政治の鉄則で職業軍人以外の人物が軍隊に対しての最高の指揮権を持たなければならないというものです。

 命を懸けた演説の後、三島は自決。三島由紀夫は45歳。森田必勝は25歳という若さでの死でした。三島と森田の忌日には追悼集会「憂国忌」が行われています。

 三島由紀夫の生涯

 1925年生まれ。学習院高等科を首席で卒業。16歳の時に『花ざかりの森』を発表。1946年には川端康成を訪ね認められ生涯の師弟関係となる。

 東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省したが僅か1年で辞め、作家として専念することに。1949年に同性愛の苦悩を告白した『仮面の告白』を発表。

 それからも『潮騒』『金閣寺』などで文学賞を受賞。戯曲でも『鹿鳴館」『近代能楽集』『サド侯爵夫人』など有名作が多くある。

 切腹の様子を描いた『憂国』という作品があるが三島は「もし、忙しい人が三島の作品の中から1編だけ、三島のよいところと悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いております。

 『豊饒の海』を書きあげ編集者に渡すと自衛隊市谷駐屯地に向かい割腹自殺。