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歴史年代ゴロ合わせ暗記>民主党政権の交代

2009年民主党政権の失敗

 
 2009年の総選挙で麻生太郎政権を引き続き選ぶのか?自民党の鳩山代表を選ぶのか?国民に審判が委ねられ結果、自民党が大敗。民主党への政権交代が行われました。マスコミは「戦後初の本格的な政権交代」と煽り、国民も新しい日本の形に期待を膨らませましたが、2012年の総選挙で再び自民党が政権を握ることとなります。

 なぜ民主党は政権を維持することが出来なかったのか?民主党の失敗を学んでいってみましょう。

 
マニュフェスト

 当時、マニュフェストという言葉が流行りました。これは、政権公約。マニュフェストはイギリスのブレア首相の時に注目を集めましたが簡単にいうと政策の費用や実施時期など具体的な内容を盛り込んだ”公約”です。日本でも2003年頃からマニュフェストを掲げる候補が増え、その後、各党も公表していました。

 それまでは「選挙公約」というのがありましたが、選挙でいい顔して実際は実現出来ないなんてことが多くありましたので、民主党は具体的なマニュフェストを掲げ、期日や財源を明記します。野党ですと具体的な情報が入ってこないこともあり明記出来ないものもありましたが財源などは無駄を省くことで解決できるはずだと考えました。

 このマニュフェストの中には国民にとって魅力的な内容のものが多くあり「本当に実現してくれるならありがたい。実現してくれそう。」と期待し民主党に皆が票を投じたのです。

 しかし、このマニュフェストが後に民主党を苦しめることになります。

 政権交代後、いきなり前原誠司国交相(当時)が群馬県の八ッ場ダムの建設中止を発表します。これもマニュフェストに書かれた約束であり、政権をとったからには約束は守らねばなりません。ですが、普通はこういうことって”根回し”をしておくんですね。地元を説得したり、関係者に話を通しておいたり。しかし、民主党の場合はいきなりの発表です。

 これで地元や関係者から大きな反発をかい、結果、建設中止の発表は撤回せざるを得なくなります。

 また、沖縄の米軍普天間基地問題でも鳩山代表は「個人的には最低でも県外が願望」といった旨の話をしており、沖縄の人々は期待をしていたのですがアメリカとの根回しもせずに発言していたため迷走。

 まぁ、実際には国民の知らぬところで話し合いをして決めておくというのは不透明ですので”根回し”なんてしない方がいいわけです。民主党は真面目に裏での話し合いなどせず「まず、発表をして議論をし、世論を聞こう!」と考えたんです。

 ですから当時の民主党のやり方は、間違っていたわけではないと個人的には思います。しかし、全然マニュフェストに掲げた項目が実現しないんですね。これで国民も”アレ”ってなります。

 
財源の確保

 また、財源の確保も問題となりました。

 民主党は、財政の無駄を省くために「
事業仕分け」を行います。議論はオープンにしてテレビでも放送されました。これにより、各省庁の予算に無駄があることが明らかになりますが、思っていたほどではなかったんです。安定した財源を確保できるほどではありませんでした。

 
子ども手当

 民主党は子供ひとりに足して月額26000円を支給するとマニュフェストに掲げていました。小さな子供のいる世帯では、このマニュフェストは非常に魅力ある公約です。

 しかし、これに対しても民主党は見通しが甘かったんですね。当初、民主党は月額13000円なら財源の確保は可能という判断でした。しかし、政権が取れれば事業仕分けなどで無駄を省き実現可能という甘い見通しで選挙対策も兼ねて金額を2倍で発表したんです。

 結果としては、26000円の支給は断念。2012年の野田政権時には児童手当に名称変更となり支給額も見直されます。

 脱官僚・政治主導

 民主党は政権交代直後に「脱官僚」を掲げ政治主導を目指しました。

 各省庁には大臣がいますね。この大臣が一番偉いんです。また、政務三役というのもいます。副大臣と政務官。この大臣、副大臣、政務官は国民から選挙で選ばれた国会議員です。ですが、彼らは役職は高くても各省庁の細かな仕事までは熟知しておりません。ですから、事務方で支える人がいます。それが事務次官。本来は、国民から選挙で選ばれた政務三役の人たちが事務次官や官僚を使いこなす立場なんですが実際は違いました。

 それまでは、内閣での閣議の前に事務次官会議というのが開かれて各省庁の事務次官が集まり、閣議で何を話し合うか事前に決めていたんです。そして、閣議では大臣があらかじめ決められた書類にサインをするだけ・・・。

 民主党は、コレに「待った!」をかけたんですね。

 各省の大臣は、「判断するのは俺たちだ!全部、俺たちに報告しろ!」と事務次官、審議官、局長らに命令をします。もちろん、彼らは面白くありません。

 結果、何かを決めるのにも時間が掛かるし、事務次官会議がないので他の省庁が何を行う予定なのかわからず、各省庁がバラバラの状態となりました。

 そして、東日本大震災の時にも大臣と官僚のスムーズな情報交換が出来ず、素早い行動が出来なかったともいわれています。

 民主党政権末期の野田総理の時代には事務次官会議は名称を各府省連絡会議と変え復活させます。

 民主党政権時代にやろうとしていたことは、決して間違ってはいなかったと個人的には思います。しかし、長きに渡る自民党政権時代の習わしを一気にひっくり返そうと考え、逆効果になってしまったものも多かったんですね。見通しの甘さというのも目立ちました。

 しかし、国民はこれで政権は交代させられるということを学びました。与党も何かあれば、野党にひっくり返されるという緊張感が生まれたはずです。