承久の乱
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承久の乱(じょうきゅうのらん)とは、1221年。源氏の血筋が耐え、これをチャンスと見た後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が時の執権、北条義時の追討の声を上げ始まった争いです。
では、承久の乱について、もう少し詳しく見ていきましょう。
源平の戦いで平氏を滅亡させた源頼朝(みなもとのよりとも)は、その後、鎌倉に幕府を開き(1180年〜1192年頃)、自らは征夷大将軍に就任します。
当時は、後白河法皇が亡くなり、源頼朝と親しい九条兼実(くじょうかねざね)が朝廷の中心であった為、幕府と朝廷の関係は良好でありました。
しかし、なんと征夷大将軍の任命からわずか7年。1199年に源頼朝が馬から落ち怪我をしたのが災いし亡くなってしまいます。
その後を継いだのは、息子の源頼家(みなもとのよりいえ)でしたが、この18歳の青年が実に評判が悪い!有力御家人達の権力争いを背景とした政変もあり結局、失脚してしまい、1204年には叔父の北条時政により暗殺されてしまいます。後を継いだのは12歳の源実朝(みなもとのさねとも)でしたが、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって暗殺。さらにその公暁も殺害されてしまい、ついに源氏の正当な血筋が途絶えてしまいます。
さぁ、幕府がえらいことになっている間、朝廷では何があったかというと・・・。
後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が朝廷の権力を復活させようと必死でした。新しい親衛隊「西面武士(さいめんぶし)」を設置し力を朝廷側にもつけたり、幕府寄りであった九条兼実らの権力を奪ったり・・・。
そんな時に幕府はいざこざで源氏の正統が途絶えたわけです。
時の将軍は、まだ幼いお飾り将軍-九条兼実の子、九条良経(くじょうよしつね)。実質、権力を握っているのは、執権という役職の北条義時。
「よーし。北条義時を抑えて、朝廷の力を復活させるぞ!」
と、後鳥羽上皇は、このチャンスを逃しませんでした。これが、承久の乱の始まりです。
驚いたのは幕府側です。いきなり、朝廷の敵とされ動揺が隠せません。
「やばいよ。朝廷の敵だってよ。俺、逃げようかな?お前は・・・?」「あっ、俺は上皇側につこうと思って・・・。」
みたいな話が幕府の中でささやかれている中、登場したのが源頼朝の妻である北条政子でした。彼女は、戸惑う御家人たちに・・・。
「お前達、よく聞きなさい!頼朝様が平氏を滅ぼし関東に幕府を開いてから、お前達の役職や給料は随分と上がって生活が楽になったはずです。その恩は山よりも高く、海よりも深いのではないのですか?恩を忘れ、あっち側につきたいというのであれば、別に止めはしません!出てきなさい!」
そう涙ながらに訴えるのです。
「そういえば、昔は京都を守るとか言ってさぁ、3年間働かされたあげく、帰りは惨めに裸足で帰ってきたこともあったよなぁ。それを、頼朝様が変えてくれたんだったよなぁ。お前、上皇側につくとか言って、あの頃に戻ってもいいのかよ?いいわけねぇよなぁ。朝廷がなんだ!俺達の実力みせてよろうぜ!」
幕府軍の兵士たちは北条政子の言葉で目を覚ますわけです。北条政子の訴えで結束を固めた幕府軍はめちゃめちゃ強く、わずか1ヶ月で乱は鎮圧。後鳥羽上皇をはじめ、3上皇は各地に配流され、関係した公家たちも処罰されました。
そして、上皇側の領土も没収され、その領土は功績のあった御家人たちに配られ、以後、幕府の力は更に強固なものとなるのです。
承久の乱まとめ |
原因 |
後鳥羽上皇らが倒幕のために挙兵 |
結果 |
幕府の勝利 |
その後 |
公家勢力の後退 |
後鳥羽上皇は隠岐へ島流し |
六波羅探題(承久の乱後、京都の六波羅におかれた。朝廷・公家の監視。西日本の支配が任務。 |
語呂合わせ |
1221年・人に不意(1221)打ち、上級(承久)生 |
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