歴史年代ゴロ合わせ暗記  

歴史年代ゴロ合わせ暗記伊藤博文
   

伊藤博文

 

 伊藤博文といえば、初代内閣総理大臣であり、44歳での最年少就任記録を持っており、さらには4度も総理大臣を務めたスゴイ人ですね。お札にもなってますし、明治憲法の制定、立憲政友会の初代総裁、枢密院議長、初代韓国統監を歴任とまさに明治を創った代表的人物です。伊藤博文を知らないという人は、殆どいないのではないでしょうか?

 しかし、彼は当時からプレイボーイで有名だったことや農民の出だったことは知っていますか?

 では、伊藤博文について少し学んでいきましょう。

 1841年(天保12年)、農民の子として生まれますが、父の破産などがあり、父(林十蔵)が養子に入ったことから、父子ともに足軽の身分となります。

 その後、松陰の外叔である久保五郎左衛門が開いていた松下村塾で学びますが、博文の転機となるのが16歳の時。ペリーの黒船が来航し、江戸湾の警備のために相模に派遣された博文は吉田松陰の友人、来原良蔵と出会い、彼の紹介で17歳の時、松陰の松下村塾に入ることになります。

 松陰からは「政治の才あり」と評価され、塾生たちからも弟分のようにかわいがられることになりますが、松陰の死後はイギリス公館の焼き討ちに関与するなど尊攘運動に傾倒していくことになります。

 1863年(文久3年)には長州藩からイギリス派遣の留学生の一人に選ばれたことが伊藤博文の人生を変えることに・・・。ロンドンにて当時の最新技術や軍事、産業、文化を学んだ博文。その圧倒的な国力の差を知った博文は、それまでの攘夷論から開国攘夷論へと志を転換させることになるのです。

 翌年、長州が英仏蘭米の4カ国連合艦隊と戦おうとしていることを知ると、伊藤博文は長州藩の危機を救うため、井上馨と留学を切り上げて帰国。その長州はめっためったにやられており、高杉晋作が敗戦処理に終われる中、博文も通訳として長州が少しでも有利になるように奔走します。

 維新後は、木戸孝允(桂小五郎)が新政府の総裁局顧問となると弟分の伊藤博文を参与職とし、28歳のときに兵庫県知事にもなりました。その後政府の要職を歴任し、1885年(明治18年)に初代内閣総理大臣となります。
 
 1905年(明治38年)には、初代韓国統監となりますが、その4年後にハルビン駅にて朝鮮独立運動家、安重根(アンジュングン)から3発の銃弾を浴びせられ亡くなることに・・・。

 陽気で人懐っこく、気配りができたので人には好かれたといわれている伊藤博文。また、松下村塾時代には昼夜の別なく読書をし、松陰も久松玄瑞にあてた手紙で博文は進歩したと伊藤博文のことを褒めています。

 また、女性好きだったことも有名で女優の川上貞奴や女子教育者の下田歌子と浮名を流したことや40度の熱が出ても芸者を呼んでいたなど・・・。嘘か誠か?総理公邸が作られたのは、伊藤博文が女遊びで借金を作り家をとられてしまったためにできたと噂されるほど、当時、博文の女好きは有名だったようです。