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歴史年代ゴロ合わせ暗記>今川義元とは

今川義元


 今川義元(よしもと)っていうと”おじゃる丸”のような眉毛でなんとな〜く、弱っちいイメージがある人も多いと思います。ゲームや漫画なんかでは、だいたい小太りで京風の着物を着て扇子を持っている姿が描かれているものが多いですもんね。



 しかし、太平記英勇博に描かれた今川義元は↓こんな感じです。
 
 


 最終的には、織田信長に桶狭間の戦いで敗れますが、「海道一の弓取り」の異名をもった今川義元。実は、ぜんぜん弱っちい戦国大名ではなかったのです。
 
 それでは、今川義元について少し学んでいってみましょう。

 今川義元は1519年。駿河守護の今川氏親(うじちか)の5男として生まれました。4歳で仏門に出され出家。今川家重臣出身の禅僧、太原雪斎を養育係として育てられることになります。

 1936年に家督を継いだ兄の氏輝(うじてる)、また同日に次男の彦五郎までもが死ぬと跡目争いが起こりますが、それを倒して義元は家督を相続することに成功するのでした。

 翌年、それまで敵対関係にあった甲斐の武田信虎の娘を正室にむかえて甲斐との同盟を結びます。しかし、それまで同盟関係にあった相模の北条氏綱との関係は悪化。北条軍からの攻撃を受けることになります。

 これを義元は関東の上杉憲政と謀って氏綱を挟み撃ち攻撃!撃退しました。

 さて、今川軍が北条軍に気を取られているのをチャンスと見たのが尾張の織田信秀。当時、三河という地は、松平氏が平定していましたが内紛が起こり、ちょっとゴタゴタしたいたんですね。一応、今川義元の力を借りて松平広忠が家督を継いではいましたが情勢は安定していませんでした。

 その隙をついて三河に勢力を伸ばそうといていたのが織田信秀。松平広忠は今川側に援軍を頼むためにまだまだ幼き頃の徳川家康(一子竹千代)を人質として送りますが途中で織田側に奪われてしまいます。

 それでも今川義元は三河に援軍を送り織田軍との決戦となりますが、この争いは織田側の勝利に終わっています。(第一次小豆坂の戦い:この戦いは創作との説もあり)

 それにしても、なぜ今川義元は三河が織田の手に渡るのを嫌がっていたのか?実は、今川も三河の地をずっと狙っていたんですね。ですから、1549年に松平広忠が死ぬと本格的に三河への侵攻を開始します。

 軍師、雪斎の活躍もあり、三河に入り込んでいた織田を追い出します。その際、織田信秀の子、信広を人質とし、織田側にとらえられていた竹千代(徳川家康)と交換。こうして、松平家の当主を人質とし三河を勢力下におくことに成功するのでした。

 

 ざっくりですけど、当時の勢力図は上の通りです。今川にとって怖いのは東の北条ですね。実際、織田と連携した北条氏は駿河の東部にたびたび侵入してきます。しかし、今川義元は、雪斎を使い武田晴信(信玄)の力を借り北条氏との同盟に成功するのでした。これは、いわゆる政略結婚ってヤツですね。武田晴信の娘を北条氏康の子である氏政に嫁がせ氏康の娘を今川義元の子である氏真に嫁がせます。義元の娘はすでに晴信の子である義信に嫁いでいましたので、見事なトライアングル成立ってことです。

 さぁ、これによって東は安心できる状態となった今川義元。次に狙うは・・・。そう、織田が構える尾張ですね。織田信秀は1551年に亡くなっているし、その跡を継いだのは信長とかいう変なヤツ・・・。

 こりゃ、余裕でしょ!ってことで三河、遠江、駿河から兵を3万とも4万ともいわれる数を動員し、織田の出城を次々に撃破!

 しかし、義元側にもおごりがあったのか?桶狭間にて奇襲を狙う織田信長の戦略に見事にはまってしまいあっけない最後を迎えることになるのでした。

 さぁ、最後は織田信長という天才にやられてしまいましたがどうでしょうか?なかなかの人物ですよね。少なくても扇子を口元に持っていき”フォフォフォッ”などと高笑いをしているイメージとは大分違ったのではないでしょうか?

 義元にとって不幸だったのは、軍師、雪斎が桶狭間の戦いの前に亡くなってしまっていたことでしょうね。