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井原西鶴


 井原西鶴は、1642年に大阪の裕福な商家に生まれました。15歳の頃から俳諧には親しんでいましたが、30歳のころには講林派の俳風に転じて一定時間に多くの句を詠むことを得意とするようになります。

 33歳の時に妻を亡くした井原西鶴は1000句の追善興行を行いますが、それをきっかけに2年後、大阪の生玉本各覚寺で1昼夜1600句独吟興行をして矢数俳句の新記録を作りました。1分間に1句を詠み続ける力量に人々は大喝采をおくります。

 なんと亭主かはつた恋はござらぬかきのふもたはけが死んだと申す

 この句は、その時に井原西鶴が詠んだ句のひとつですが、なんとも自由奔放な句ですね。



 その為、その井原西鶴は「阿蘭陀流(おらんだりゅう)」=(流行かぶれ)などと評されます。自由奔放であり、本音やユーモアに満ちた句が多かったためです。2歳年下に松尾芭蕉がおりましたが芭蕉の句はどちらかというと芸術性の高い作品が多く、優等生的な句が多かったわけですが、対する井原西鶴の句もなかなかの人気であったようです。

 1680年、井原西鶴が39歳の時には、1600句の記録が破られたのをきっかけに再び生玉本覚寺にて矢数俳諧を披露。今度は一夜一日独吟4000句を見せつけます。さらに42歳の時には住吉社にて一昼夜に23500句を独吟し人々の度肝を抜きます。以降、井原西鶴は「二万翁」を自称しました。

 1昼夜に2万3500句ということはおおよそ1分間に16句、4秒に1句以上を連発していたことになります。

 この時の第一句はというと.・・・。

 俳諧の 息の根とめん 大矢数

 なかなかユーモアのある句ですね。

 この一昼夜23500句の大記録を打ち立てるなどの俳諧師をやるかたわら、井原西鶴は小説にも興味を抱き始めます。40歳の時に「好色一代男」を刊行。この好色一代男は、主人公世之介の7歳から60歳までの恋の生涯を描いた源氏物語のパロディですが、この好色一代男以降、浮世草子という小説のジャンルが流行していきます。それまでの仮名草子とは一線を画した分野の小説であり多くの人に愛読されるようになるんですね。

 以後、「好色二代男」「凱陣屋敷」「西鶴諸国ばなし」「好色五人女」「好色一大女」「本朝二十不幸」「武道伝来記」「日本永代蔵」「武家義理物語」「本朝桜陰比事」「世間胸算用」などを書き上げ大阪で52歳の時に亡くなりました。