歴史年代ゴロ合わせ暗記  

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フランク王国


 
フランク王国とは、481年にメロヴィング家のクローヴィスにより統一されたのが始まりです。

 当時は、ゲルマン民族の大移動の後、西ローマ帝国が滅亡。その後、主に旧西ローマ帝国領内にゲルマン民族の王国がいくつも建国されました。しかし、その多くは6世紀から7世紀に滅亡してしまいます。しかし、フランク王国だけは生き残り、のちのヨーロッパ社会に大きな役割を果たすことになります。

 では、なぜフランク王国は生き残ることができたのか?

 ひとつ大きな要因に496年のアタナシウス派への改宗があります。当時、他のゲルマン諸国の王たちはアリウス派の信仰に固執していました。しかし、ローマで信仰されていたのはアタナシウス派。クローヴィスは、部下と共にこのアタナシウス派へと改宗したんです。

 これによってフランス王国はローマ=カトリック教会と友好的でいられるようになり、ローマ人からも余計な反発を買うことを避けられたんですね。

 アタナシウス派もアリウス派も同じキリスト教だよ。でも、アタナシウス派と呼ばれる人々はキリストを三位一体、つまり「父なる神、子なるイエス、そして聖霊は一体である」としてキリストを神性を帯びた特別な存在としていたんだ。対するアリウス派の考えは、キリストは予言者であってあくまで人であると考える人たちのことだね。ローマでは、アタナシウス派が信仰されており、ゲルマン民族はアリウス派を信仰していたんだ。


 このメロヴィング家によるもやがて衰え、かわりに実権を握ることになったのがカロリング家です。カロリング家は内政や財政を取りまとめる役職についていたんですが西ヨーロッパでも生産力の高いライン・ロワール河間地帯を押さえていたので力を伸ばしていたのです。とくに8世紀前半に出たカール=マルテイという人はイベリアから進入してきたウマイヤ朝を撃破(トゥール・ポワティエの戦い)。これによりカロリング家の名が知れ渡ることになります。

 そして、そのマルテイの息子であるピピン3世(小ピピン)がメロヴィング朝の国王を廃してカロリング朝を開きました。

 ピピン3世はローマ教皇の要請を受けて、当時北イタリアを支配し南下の気配を示していたアリウス派のロンバルド王国を討ち、その獲得した領土を教皇に寄進します。

 これが教皇領の始まりとなりました。現在では教皇領はなくなってしまったけどバチカン市国が一種の教皇領のようなものという考え方もできますね。

 このピピン3世の後に登場したのがカール大帝。彼の時代に西ヨーロッパは、ほぼ統一されることになりますが、それはまた次回のお話。
 
 ゲルマン民族大移動

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カール大帝